羽化を望む翼
エピローグ.

 山頂近くの稜線が、雪で白みはじめている。
 この北の大地にはとかく山が多かった。名の知れた山々が並び立つ自然の強い地において、その町はひっそりと人の営みを続けていた。町の背後に構えるのは、過去に火竜が棲んだと言われる火の山だ。山はいまなお熱を持ち続けているらしく、熱水が地下をめぐり、凍てつく大地から町を守っているという。連山から下る急流の河川に張りつくようにして発達した小さな町には、それ以外はとりざたするような特徴もなかった。
 火の山から流れ出た河川は町を囲う外壁をくぐり、こぢんまりとした市街地を串刺しに通りぬけている。川の行く末は深い森に飲み込まれ、さらに先まで下れば草原の街に行き当たる。
 だが逆に、川の上流――火の山に何があるかを知る者は少なかった。
 山間に遡行を続けると、人間の侵入を拒む奇岩の群れが行く手を阻む。それでも川に沿って登り続けると、やがて入り組んだ谷間に埋もれるようにして、山岳地に不釣り合いな畑と小さな家屋が見えてくる。渓谷からの潤沢な清水に目を付けたどこかの豪農が造ったものの、あまりの便の悪さにすぐさま放置されたという札付きの土地だ。
 最後の人間が去って十数年。
 さすがに用水路は荒れ果て、畑の畝は半ば以上森に飲み込まれ、用人の暮らしおきのための家は黴とほこりと蔦かずらにまみれている。――そこに彼らが居着いて、数か月が経っていた。
 海を渡った先の大陸の風は、徐々に肌寒さを覚えるほどになっていた。
 やがて訪れる凍てついた季節に、彼は思いを馳せた。前に町に降りたとき、次の市でいい服飾商人がくると耳に挟んだことを思い出す。地熱があっても寒いものは寒い。屋敷の軒先でぶらぶらしていた足を止め、灰色の曇り空を見上げる。
 曇天には、染みのような点がぽつりと落ちていた。
 だんだんと大きくなっていく点を、彼は目を細めて見つめた。
 かつては、ときどき――本当に稀にだが、牧歌的な妄想が頭を過ぎることがあった。あった、のだ。
 自分とあのドラゴンとで、どこかの田舎に引きこもって送る生活。地の果てに居を構え、朝日が昇るとともに起きだして小さな畑を耕し、ふたりで取れたての大地の恵みで腹を満たし、昼を過ぎて草を抜き、薪を拾い、ときには愛らしい翼にすがって碧空を駆り、沈む赤光を眺めながら晩酌をする。耳に入るのは、木々の交わす豊かな息づかいと虫の声。星のまたたきさえ聞き取れそうな静寂の夜も、あるかもしれない。
 昼を重ね、夜を重ね、朝を迎え、夕が暮れる……ささやかな営みを繰り返す、つましい夢。
 妄想の中にはなぜかあの娘も登場し、なにやかやと自分たちの世話を焼いたりしていたのだ。
 頭上で空を打つ羽ばたきが響き渡る。点はもはや点ではなく、空を覆う巨大な影になっていた。乾いた地面から砂埃が舞いあがる。地響きを立ててドラゴンが地面に降り立つ。その背中から、金の尾を引いて人影が飛び降りる。
 穏やかな生活……。
 眩暈がした。
 夢と違う箇所があるとすると、それは、ドラゴンの鱗が緑ではなくなってしまっているということくらいか。

 了
||| inserted by FC2 system