灰色の目は頭上を通り越して背後を見ていた。
咆哮の合間に、金属が軋みあう音。肉が裂けるような音。
ばきん、という音がした瞬間、マルグリッドは痛みも目前の危機も捨て置き背後に向き直った。全身全霊をやすりで削り取られるような、胸の底まで震えるような、恐ろしくもどこか美しい咆哮が草の原を渡ってゆく。
血のように真っ赤に染まった空を背負い、ドラゴンが首を天に突き上げ、吼えていた。
本来地を踏みしめるための二つの足は、鎖が絡んだ半ばで不自然な向きにねじれていた。夕闇を突いて伸ばそうとしたのだろうが、翼は折れ、生白い骨のようなものが肉の隙間から覗き、それを隠すように、あとからあとから血があふれ出てくる。その間も、肉が裂け、骨がきしむ音は止まらない。
やがて長い咆哮がやみ、無理やりに伸びきったドラゴンの巨体がゆっくりと傾ぐ。落ちかかる影がマルグリッドの頭上まで伸びてくる。押しつぶされることを覚悟して、マルグリッドは我も忘れて、迫りくる鱗に包まれた巨体を見つめた。
一瞬のうちに鱗が肉薄してくる――。
だが、マルグリッドが押しつぶされる寸前、倒れかかる巨体の軌道がずれた。胴をひねって器用にマルグリッドをよけたあと、ドラゴンは腹で地を転がり、いきおい跳ね起き、重さののった長い尾で、周囲を囲んでいた騎士たちを払った。地を滑るような勢いで伸びた棘つきの尾が、脛当てに守られた幾人もの足をつぶす。ひしゃげた音に悲鳴が混じる。
『逃げ足ばかり早い小虫めが!』
忌々しげにこぼす声。一番の至近距離にいたはずの騎士長が、すでに余裕を持って広場の縁まで後退していることに気づいたのだろう。
「エ、エターナ……」
マルグリッドが恐るおそる呼びかけると、ドラゴンは牙を剥き出して笑った。
『どうだ。鎖などほどいてやったぞ……』
誇らしげにドラゴンが言う。マルグリッドはもう一度ドラゴンの名を呼んだ。なにを言えばいいのかわからなかったのだ。
ドラゴンの背後にかばわれるようになったマルグリッドと男を中心に、ちょうど振り回した尾の半径のぶんだけ広間に隙間ができていた。ぽっかり空いた隙間のところどころに、ドラゴンの血痕が点々としている。桶でぶちまけたような、盛大な血の跡が。血だまりには、転がった際についにちぎれてしまった下肢と、血と鱗にまみれとぐろを巻いた鎖が、残されていた。
決してほどけない鎖。
ほどけないから、四肢ごと引きちぎって捨てたのだ。
『おぬしは我を逃がすと言ったな。それはかなわぬことだ。だが、逆ならばどうだ? 我はおぬしがこの場から身を隠すくらいの時間を奴らから巻き上げることができる』
「やめてよ……」
『どのみちこれが最期だ……マルグリッド、こんな小汚く薄暗い牢獄からは、出ていくがよい!』
「やめて!」
ドラゴンは無視した。もはや翼と呼べるかどうかもわからない、白い骨が露出した肩をそびやかし、自らを奮い立たせるように吼える。
遅れて騎士たちが剣を構え、やや崩れた、それでも統制のとれた動きで包囲網を広げていく。気づいているのだ。なかば四肢を失ったドラゴンの動ける範囲は、もう広くない。離れた位置から囲い込み、じわじわと追い詰めるつもりなのだ。
マルグリッドは腰に手をやった。あてにならない自分の剣。これで少しは加勢ができたら――ドラゴンを守れたら。
逡巡のうちに、騎士長の号令がかかり、騎士たちが剣を肩の上に構えていく。奇妙な構えにマルグリッドが首を傾げる暇もなかった。投擲槍でも放るように、そのまま渾身の力を込められた長剣がドラゴンめがけて一直線に放たれる。無名の騎士の長剣が尾に払われた直後、隙間を縫って飛来したもう一本がドラゴンの横腹に突き刺さる。また一本の剣が投げられ、打ち払われる。もう一本が刺さる。もう一本が……。
もはや迷っている時間はなかった。
柄を握り、囲いの騎士たちに向かって走る。だが三歩も進まないうちに、マルグリッドは背中に衝撃を受けた。
何者かに背後から体当たりされ、なすすべもなく草にまみれて転がる。ちょうど仰向けになったところで身体が止まり、自分の上に馬乗りになっているのが、先ほどまで手を縛られて地に転がっていた男だと気づく。真っ暗な、そのくせぎらぎらと輝く目をして、荒い呼吸を繰り返す口は何か言葉をなそうとしているのか、かすかに開いている。
反射的に男の胸を押しのけようとした瞬間、肩口の傷から焼けつくような痛みが走り、腕が止まる。その隙に男の肩で逆に胸を強打され、息がとまる。身動きが取れない。マルグリッドが空気を求めて喘いでいる隙に、男は身をかがめた。ちょうどマルグリッドの腰のあたりに頭を沈め、顔を押し付けるようにして、なにかをしている。
と、わき腹に鋭い痛みが走り、拍子に空気が肺に戻ってくる。
男はすでにマルグリッドの上から離れていた。口に器用に剣の柄を咥えている。マルグリッドの剣だ。それを地面に吐き捨て、背中にまわされていた腕をこすりつける。縄を切ったのだ、とマルグリッドが気づいたときには、立ち上がった男は剣を再び拾い上げ、囲いの騎士に斬りかかっていた。ドラゴンに注意を奪われていた騎士は、なすすべもなく男に斬られた。
血と悲鳴が噴き上がり、異常に気付いた何人かが男に剣を向けた瞬間。
草を薙ぎ、風を凍らせる悲痛な叫びがすべての時を止めた。
すでに何本もの剣に串刺しにされながらも、うめき声ひとつ上げなかったドラゴンがはじめてあげた声だった。ドラゴンの頭に深々と刺さった剣を、マルグリッドは見た。
取り残された翡翠の瞳が騎士長の姿を捉えている。潰された片目の仇討に燃えている――。
一瞬の硬直は、低い叫び声によって解かれた。激昂した黒髪の男が、騎士長に斬りかっていく。冗談のような剣さばきでまばたきひとつのうちに立ちふさがる騎士たちを除け、ついにたどり着いた先で、男のふるう兇刃を受け止めた騎士長は、嗤っていた。口元を酷薄に歪めて、檄を飛ばす。
「手を休めるな!」
突然の強襲に気を取られていた騎士たちの矢ぶすまが再開され、男と騎士長が切り結ぶのをよそに、飛び交う長剣がぶすぶすとドラゴンに穴をあけていく。苛立たしげに反撃の尾をふるうドラゴンだったが、もはやそれに最初の勢いはなかった。鼻筋には刻まれた苦悶に彩られた皺は、すでに深い。鱗を割り、肉を断ち切る剣の隙間から、あふれる血が止まらない。
「あとどのくらい持つだろうな」
ふいにかけられた声のほうに、マルグリッドはのろのろと顔を向けた。どうやって暴れるドラゴンをかいくぐったのか、抜き身の剣を手に、痩躯の騎士がマルグリッドの前に立ちふさがっていた。長剣の腹を撫でながら、マルグリッドの目を覗き込むようにして嗤う。ひりつくような目が、肩の傷に移った。
「父親もそうだった」
そう言って、じわりと距離を詰めてくる。
「一度では、くたばらなかったな」
一度では。
マルグリッドが言葉の意味を正しく理解するより早く、ザイルが低い姿勢で懐に踏み込んできていた。足元から逆袈裟に跳ね上げられた刃を、飛び退ることでかろうじて避ける――避けたつもりだったが、男の剣はあやまたずマルグリッドの肩を切り裂いていた。既に開いていた傷から新たな血が跳ねる。骨までえぐるような痛みに悲鳴が漏れる。
『マルグリッド!』
足がもつれて、うまく立てない。ドラゴンの苦しげな声が響く。返す刃が振り下ろされ、マルグリッドは目を閉じた。
衝撃。
暗転。
ぱた、と頬に触れた生温かい液体に、マルグリッドは正気を取り戻した。
固く閉じていたまぶたをひらく。視界は黒で埋め尽くされていた。目を精一杯開いても暗い。マルグリッドは最初、自分が意識を失い、騎士長の言葉の通りに土に埋められたのだと思った。狭い場所に押し込められたように身体がほとんど動かせなかったからだ。
もう一度、頬に生温かいものが伝う。
身じろぎをすると、硬いなにかが肌を鋭くこすった。覚えのある感触だった。
マルグリッドがぞっとするような現実に思い当たりはじめたころ、身体を包むように閉じ込めていた硬いものを通して、ぞぶ、という音が聞こえた。触れているところから皮膚の下にねじ込まれてくる、断ち切られる肉の音。
「エターナ! なにをやってるのよ!」
巨体の隙間に自分を閉じ込め、鎧となってしまったドラゴンは、マルグリッドがいくら暴れ、罵っても、微動だにしなかった。ただ、剣が突き刺さる音がするたびに、わずかに揺れるだけ。苦悶の声すら上げない。もはや振りかかる血は、頬といわず、マルグリッドの全身を濡らしていた。温かく、暗く、湿ったドラゴンの内側で、ドラゴンを破壊する音に囲まれ、マルグリッドは絶叫した。
やがて、マルグリッドの声が枯れ、剣が尽きたころ、戦場は静かになった。
マルグリッドは、すっかり脱力したドラゴンの身体から這い出した。左肩の痛みはただの熱にとって代わられていた。ただ、熱い。騎士たちは相変わらず自分たちを取り囲んでいた。囲いの一部は、血まみれで転がる騎士たちで崩されている。首をめぐらす。倒れる騎士たちの中に、黒髪の男の姿もあった。引き出されたときより、さらにひどい有様になっている。マルグリッドの位置からは、生死の判別はつかない。
肩が熱い。
男の隣には、騎士長がたたずんでいた。手傷を負っているのか、左腕が下がっている。すでに森の妖精の姿はなかった。血なまぐさい戦場からは、早々に去ったのだろう。断片的に状況を見てとりながら、マルグリッドはついに自分が這い出たものを注視した。
数え上げるのもばかばかしい本数の剣が、背と、腹と、翼の名残と、尾といわず、まんべんなく全身に突き刺さっていた。ドラゴンは、マルグリッドを守るために背を丸めたその姿勢から、ぴくりとも動かない。
喉から漏れた声は、木枯らしのような擦り切れた音に化けた。それでもドラゴンには届いたのか、巨体が一度ぶるりと痙攣する。よろめきながらマルグリッドはドラゴンの前に座り込んだ。流れ出た血で濁った翡翠の片目が閉じる。あとは空気が抜けたように、ドラゴンはぺしゃんこになった。身体を維持していた最期の力を失い、完全に地面に倒れこむ。
手を伸ばし、ドラゴンに触れてみる。冷え切った手を通して、まだかすかな温かさが感じられた。
まだ、だ。
もうじき、は、わからない。
マルグリッドが声ならぬ声でうめいたとき、脳裏に小さな声が聞こえた。男のものとも女のものともつかない、いまとなってはすっかり聞き慣れてしまった声。はっと顔をあげるが、ドラゴンの目は閉じたままだ。
『マルグリッド……最期に、おぬしに謝らなければならぬことがあるのだ』
――最期だなんて縁起でもないこと、言わないでよ。
『おぬしらの呪わしき血だ。あれが……我には、ほんの少しだけ、ありがたいと思うこともあったのだ。……すまぬ』
――そんなことで謝らないでよ。
『傷だらけだな……』
――私が頑丈だって言ったのは、あんたじゃない。あんたのほうがよっぽど、ひどいわ。
想いが声にならないまま、ひざの上に、力の入らないドラゴンの鼻の頭をのせる。瀕死のドラゴンは、うわごとのようにとりとめのない言葉を発し続けていた。鱗が腿にちくちくと刺さる。構わずに頭を抱きかかえる。半開きの顎から投げ出されたざらざらの舌は、ドラゴンの血でどす黒い色になっている。
『逃げればよかったものを……この、愚かもの……め』
「ばかはあんたよ」
かすれた喉がようやく動いてくれたと思えば、これだ。命が流れ出していくドラゴンを前に、いつも通りの憎まれ口しか利けない。
言葉ではとてもやるせない。マルグリッドは身をかがめた。気配を察したのか、ドラゴンの重いまぶたが持ち上がる。翡翠の瞳は濁り、どこを見ているのかわからない。血で汚れた鱗はぬめって、頭を支えるマルグリッドの腕をすり抜けてしまいそうだった。
マルグリッドは、弛緩した半開きの顎に両手を差し込んだ。上顎を右手でつかむ。力を失ったドラゴンの顎は重かった。腕にゆっくりと力を入れ、顎をこじ開ける。牙を押しのけ、顔を寄せて、そっと――。
一瞬のふれあいに、ドラゴンの身体がびくりと震えた。
ざらざらしていて、柔らかで、錆の味がする、とマルグリッドは思った。思っていたよりも、感動的なものではないし、ましてや気持ちのいいものでは決してなかった。ただのふれあいの延長にすぎない。
だが、尊いものだ。
お返しのように、ドラゴンがわき腹の切り傷を舐めた。男から剣を奪われたときに、刃がこすれてついた傷だ。いたわるような舌の動きは弱々しい。鼻先をかすめていく呼吸は、いつの間にか怖いくらいに穏やかに変わっていた。
失われていくものを前に、マルグリッドは無力だった。
優しくわき腹をなぞっていた舌から、ふいに力が抜け落ちた。すべてのものが色あせていく。鱗は黒ずみ、残っていた目が血の色でなく濁っていく。かすかに痙攣を繰り返すだけの身体。それも、徐々に間遠になっていく。呼びかけに対する応えも返らない。うわごとのような声は遠ざかり、聞こえなくなっていく。
やがて、時が止まった。
マルグリッドの膝の上のものは動かなくなった。
入れ替わりに、離れたところから騎士たちが立てる甲冑の金属音が上がる。背後まで迫った足音が、低い声を届けた。
「気は済んだか。……おまえの処分は、追って沙汰する。そうだな、国王陛下の生誕祭前までには処刑の日取りは決るだろう」
ドラゴンの眼を射抜いたのと同じ手で、座り込んでいたマルグリッドは引きずり起こされた。膝からドラゴンの頭がずり落ちる。ざり、と土をこする音が妙に耳に残る気持ちの悪さだった。騎士長の腕はすぐにマルグリッドを離したが、マルグリッドはその場を動けずにいた。にわかに立ち動いていく騎士たちの姿をただ視界に収めることしかできない。
「こいつは」
と、騎士のひとりが倒れていた男を示した。地に転がる黒髪の男をつま先で小突いたその騎士が、以前中庭で会ったオスロとかいう騎士であることはマルグリッドにもわかったが、それだけだった。目に映るものすべてが現実味を失っている。非現実の世界で交わされる騎士たちの会話に意味などあるはずがなかった。
「適当に縛っておけ。なに、平気だ。そいつはもう使い物にならんからな。誰よりも無力だ」
戸惑う騎士に向けて言い放ち、灰眼の男は笑った。
「さて、それよりこれの後始末だが……」
と、騎士長の笑みが途切れた。
そのとき、はじめてマルグリッドは驚愕に彩られた灰色の眼を見た。興味というにはあまりに暗く濁った衝動で、騎士長の視線の先をたどる。血と泥にまみれ、黒ずんだドラゴンの亡骸は、いまや一見では元の色もわからないような、醜い黄土色や赤茶のまだら模様に変色していた。
命の脱殻だ。
ふたたび動きだすことのない永遠のさなぎ。騎士長がなにを見とがめたのか、それすらどうでもいいような気分で、ただ惰性のためにマルグリッドはドラゴンだったものを眺めていた。
そして、眉を寄せる。
鱗の色が、なにか妙な具合だった。自分がひどく重要なものを見逃している気がして、鈍った感覚を総動員してドラゴンをじっと見つめる。
気付いたのは突然だった。
無数の目が見つめる中、ドラゴンの亡骸は徐々に黄味を増していた。赤茶のまだらは血と泥の色だ。だが、この鱗の内側からあふれだしてくるような黄土色は、泥の色では――
「構えろ!」
騎士長の一喝が、騎士たちの緊張を再び束ねあげる。だが、戦闘の準備が整えられるよりも、その音が空気を凍らせるほうが、早かった。
――ぴし、ぴし、という、何かがひび割れるような音。
すべてはまばたきひとつをするよりも短い時間の中で動いていた。ドラゴンの亡骸の背中が裂け、そこから輝く金鱗のドラゴンが這い出し、窮屈そうにたたまれていた瑞々しい翼を伸ばし、一声吠え、『マルグリッド!』という声とともにぶつかるように飛び込んでくる。
肺腑がひっくり返るような浮遊感。
大きく開かれた口蓋と居並ぶ牙の群れが視界に大写しになったのを最後に、マルグリッドの身体は地上を離れていた。
眼下に見える丘陵。
遠ざかる銀の甲冑たち。
空を力強く打つ羽ばたきの音。
岩も人もはるか下に、あっという間に豆粒ほどの大きさに変わっていく。
目を呆然と見開く間にも上昇は続いていく。王城の全景を目の端に捉えたところで、マルグリッドは自分の中でなにかが切れたのを感じた。嗄れた声でドラゴンの名を呼ぶ。返事の代わりにか、マルグリッドを咥えた顎に少し力がこもる。らしいといえばらしい乱暴な返答に文句をつけようと首を上にねじったところで、マルグリッドは肩の熱も空の高さも忘れ、息を呑んだ。
自由を得て伸ばされた翼。残光をうけて淡い燐光のように輝く鱗は黄金の色。王者の証ともいえる勇壮なねじれた双角。生まれ出たばかりの身体は、滾る瑞々しさを内側に秘めて燃えている。
体格は一回り小さくなっていたが、身体のそこここがより鋭く頑健な造りになったように見える。それから、と自分を見つめる穏やかな瞳をマルグリッドは見た。ずいぶん姿は変わってしまったが――見間違えるはずもない、翡翠の瞳。
身体が勝手に震えだす。全身で感じるすべてが、緊張に苛まれていた心には毒だった。顎に挟まれ空中を飛んでいるという不格好なありさまでも、マルグリッドは泣き笑いを止めることができなかった。
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