羽化を望む翼
四章. 森の迷い子

 男の部屋にたどり着く前から、かすかな違和感が先触れとして表れていた。
 味気ない廊下は普段の通りで、漂う空気も等しく静寂に沈んでいる。日は昇って間もなく、窓から浅い角度で差し込む陽光も、それが照らし出す扉の列も、前と違う場所を探すほうが困難なほどだ。
 それなのに、己の勘は、見慣れた空間に違うものが紛れ込んでいるとしつこく警鐘を鳴らしていた。気に留めることもない些細な違和感、そう頭ではわかっていても、足どりはあやふやな疑いに素直だった。自分の歩みが心もち慎重になったことを他人ごとのように眺めたあと、彼はぎくりとした。
 廊下を叩く硬質な足音の間隙に、ときおり人の声が混じっている――それもどうやら、出所は彼が目指す部屋だ。不確かだった違和感が確固たるものにすり替わる。爪の先まで警戒心が行きわたり、彼の足は目的の部屋の手前で止まった。不吉な予感に吐き気がしそうだった。
 そのとき、閉ざされていた扉が唐突に押し開かれた。
 把手に手をかけた男が中から半身を覗かせ、目ざとく扉の前で突っ立っていた彼に目を留める。
「おまえ……」
 現れた男はわずかに瞠目してみせたあと、すぐに表情を普段どおりのものに戻した。敵意、軽侮――虫でも見るかのような目つき。不穏な色を宿して揺れる瞳は、彼の存在が不愉快でたまらないということを隠しもしない。
 だが、それはこちらも同じことだ。
 オスロ・リリウッドの目を見返しながら、彼はひとりごちた。交錯した視線の間で疑惑を投げつけ合い、この男がなぜこの場にいるかという疑問を押し殺したあと、相手の濃い碧眼がどこか煤けて見えることに彼は気づいた。常は明るい茶味を帯びていたはずの髪でさえも、この廊下では奇妙に色を失ってくすんで見える――錯覚だろうが、不思議だった。
 そこに至って、無言で互いを見詰め合う間抜けさに彼は嫌悪を覚えた。その点は相手も同じだったようで、一度不愉快そうに眉を上げてみせると、茶髪の騎士は彼の脇をすり抜けさっさと部屋を後にした。
 遠ざかる背中を見送りながら、ノックの必要は、と彼は考えた。半開きの扉を叩くのはさぞ滑稽だろうが、そうすることでいましがたの不意打ちのような遭遇をなかったことにしたかった。何ごともなかったように、仕切りなおす。毎度の呼び出しとなにひとつ変わらないのだというように。
 だが逡巡は一瞬のことで、結局、彼は無言のまま扉をくぐった。
「どうだった」
 部屋に踏み込んだ途端、問いは出し抜けにぶつけられた。鋭い灰色の眼光を受けて、たじろぐ。少なからず動揺してしまったのは、部屋の主が本題に入る前のあの回りくどい形式をはじめて抜きにしたこともあったし、オスロとの意図しない遭遇に気を取られていたせいもあった。
 だが何より、部屋にいるはずのないもう一人がいたというのが問題だった。客人が一人で打ち止めだと短絡していた己の迂闊さに呪詛を吐きかける。
 舌打ちしたい衝動をこらえながら、内心を相手に悟らせないだけの用心深さで把手を戻すと、ようやく彼は部屋の主ともうひとりに向き直った。隙のない痩躯の立ち姿、厩舎の娘よりも薄い金髪、腰で朝日を弾いて光る正騎士の証――長剣の鞘を順繰りに眺め、彼は男の名をつぶやいた。
 ザイル・パルメンティア。
 自分と同じ、竜厩舎の監視を命ぜられている騎士。だがいざ相対したときに沸きあがるのは、仲間意識でもなんでもなく、ただのうすら寒い思いと得体の知れない懸念、それだけだった。露骨に敵意をぶつけてくるあの茶髪の騎士よりも、思惑を悟らせないこの男のほうがよほど始末が悪かった。
「驚いたのはわかったが」
 と、部屋の最奥で椅子に身を沈めていた男が口を開いた。動揺を逐一掬われているとわかっていても、彼にできることは身を硬くするのがせいぜいだった。
「私は自分がそう気の長くないほうだと思っている。どうだった、と訊いているんだ……」わざとらしい間を空けて、男は言った。「鎖の色は何色だ?」
「まだわかりません」
 ほとんど反射的に彼は虚偽の報告をしていた。
「では、いつわかる」
 催促する言葉とは裏腹に、男の声には余裕があった。こちらの態度を斟酌するような、どこか作ったような気のなさを漂わせている。そのくせ、目だけは冷徹な隙のなさで彼を観察していた。
「まだしばらくは……時間が必要かと」
 二度目の嘘を口にすると同時に、彼はある事実に打ちのめされそうになった。悔恨の念がそう遠くないうちに襲い掛かることを確信して、臍をかむ思いで手のひらを握る。それでも嘘を嘘と見抜くだけの材料を相手に与えてはならず、いくばくの効果があるかもわからないまま、彼は表情を取りつくろった。
「仕事が遅いな。おまえ、もしや私が伊達や酔狂でこれを命じていると勘違いしているわけではあるまい。言え。何に手間取っている?」
「……何も」
 男が目を細め、疑念にけぶる灰眼が鋭さを増したところで、彼はそれ以上考えることを放棄した。ほとんど棒読みの口調で退室の許可を取り、男たちに背を向け、不信のまなざしを振り切って部屋から出る。
 足の赴くままに歩き続け、扉の居並ぶ廊下を抜け、これでは逃げ出したも同然だと思い至ったのは、人の気配がある大広間の付近にたどり着いた頃だった。
 冷静さを取り戻すと同時に、波がうち引くように感情が引き裂かれていく。歩き続けていた足が一歩を踏み出すごとに、端から奈落へ引きずりこまれていく。後回しにした後悔のつけを、いまになって払わされている。
 ――なぜ嘘をついた。
 自分を罵る声が脳裏を這い回る。だが自責の念は長続きすることはなく、ひとつ息をついたあとには白々しい気分だけが残った。
 本当のところ、答えなどとうに出ていた。
 ただ、ほんの少し前、嘘が瓦解する瞬間まで、自分自身にさえ都合よく隠していただけの話だ。
 当初は反射的に出たはずの嘘も、二度もとなれば迂闊な衝動でも気まぐれでもない。
 半端者の厩舎の騎士、マルグリッド・エイビーに対する後ろめたさが自分の口を重くしているという事実を、彼は苦々しい思いで噛みしめた。
 ――鎖の色は。
 金色だと、彼は知っていた。図らずとも知る形になった。
 あのドラゴンは一度、娘のため彼に牙を剥いた。相手が誰であれ、何度でも同じことをするだろう――娘を盾に取りさえすれば。そうだろう、と半ば投げやりな腹立たしさとともに認める。
 立場は逆転した。ドラゴンを捕らえたはずの娘が、いまとなっては体のいい人質だった。
 その関係を確信しているのは現状では彼だけだが、騎士長の知るところになるのも時間の問題だった。抜け目のないあの男がそうそう目を曇らせているはずがない。同じく竜厩舎の監視を命じられているザイル・パルメンティア、彼がことを嗅ぎつけるのも。
 それに、と彼は考えた。もう不信は買ってしまっている。オスロが数日前に中庭で絡んできたことも、いましがた騎士長に呼びつけられていたことも、無関係なはずがなかった。状況が示唆している現実はひとつ。自分はすでに、用済みになりかけている。オスロ・リリウッドは次のおれだと、彼は薄ら寒い思いで胸に刻み込んだ。
 だとすれば、取るべき行動はひとつしかないはずだ。憐れみも迷いも必要ない、そうでなければならない。
 だが、そこまでして得られるものは一体何だというのか。
 ドラゴンの命がひとつ、――彼への怨嗟がふたつ。あるいはもっと。
 彼は強くかぶりを振った。後ろめたさを拭い去るだけの、溺れるような熱情があと少しだけ欲しかった。靄のかかった雑念を払いのけるように美しい雌竜に想いをはせる。
 もう脳裏に焼き付けた姿を思い返すだけの日々とは違う。あの宴席の夜から、距離も立ち位置もたしかに近づいている。
 では、心は?
 ふと気がつくと、彼は自室の扉の前に突っ立っていた。
 ガランガ国に仕える騎士の大半は貴族出身で、一族が持つ領地の屋敷のほかに、王都にも邸宅を構えている場合がほとんどだった。そういった屋敷を持たない者、あるいは彼のような財力のない若い騎士などは、独身の間は素行の観点もあり、城郭内の施設に居住を定められている。その独身寮があるのは西塔の奥だったが、彼には東塔の執務室からどうやってここへたどり着いたのか、わからなかった。
 わからないなりに、自分の足がここを選んだ意味があるはずだった――そう考えたのと、扉の隙間から花の芳香が漂ってきたのは、ほとんど同時だった。つい先ほど、起きだした彼がこの部屋を後にしたときにはなかった香りだ。
 少し押しただけで扉は何の抵抗もなく開いた。鍵がないのだ。
 窓のない部屋の中は、時刻が朝だということを差し引いてもなお暗い。がらんどうとした部屋にあるのは簡易寝台と使われない文机――その上に、小ぶりの花束が置かれていた。
 まだほのかに温い寝台に腰かけ、彼は花束を眺めた。同じ種類が十本ばかり無造作に束ねられただけの花束。不在の間に小間使いが届けたのだろう。心当たりはあった。彼が数日前に頼んだものだった。花など買ったこともない男が選んだ、多少珍しい色を持っているほかは、何の変哲もない花だ。こう暗くては色も形もろくにわからないが、彼は覚えていた。城まで足を伸ばしていた行商の花売りが捨てようとしていた売れ残りの花一本。それに目を留めた彼が、無理を言って取り寄せてもらったのだ。
 透けるような色合いの若々しい緑の花弁を選んだのは、彼女の瞳のようだと思ったからだ。
 大ぶりで伸びの良い葉を選んだのは、彼女が翼を広げたときはこんな感じだろうかと思ったからだ。
 そっと腕を伸ばして、可憐な花びらを指先でなでる。こうしてドラゴンのことを考えていると、ときどき――本当に稀にだが、牧歌的な妄想が頭を過ぎることがあった。
 自分とあのドラゴンとで、どこかの田舎に引きこもって送る生活。彼女と一緒なら、剣を持つ手に鋤を握ってもいいだろう。あの安らぎを与えてくれる巨体の傍らで眠りに就くことができるならば、夢の中で銀の刃が降ってくることもないだろう。
 地の果てに居を構え、朝日が昇るとともに起きだして小さな畑を耕し、ふたりで取れたての大地の恵みで腹を満たし、昼を過ぎて草を抜き、薪を拾い、ときには愛らしい翼にすがって碧空を駆り、沈む赤光を眺めながら晩酌をする。耳に入るのは、木々の交わす豊かな息づかいと虫の声。星のまたたきさえ聞き取れそうな静寂の夜も、あるかもしれない。
 昼を重ね、夜を重ね、朝を迎え、夕が暮れる……ささやかな営みを繰り返す、つましい夢。
 妄想の中にはなぜかあの娘も登場し、なにやかやと自分たちの世話を焼いたりしていた。
 穏やかな生活。
 それは穏やかな生活だった。手慰みに過ぎない虚構のくせ、現実の何よりも彼の心を落ち着かせた。
 ――無理だ。
 聞こえるささやきは、自分の声だ。
 甘美な妄想は麻薬にも似ていた。わかっている、現実を選び取り、叶わぬ夢からは早く覚めねばならないのだ。
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