羽化を望む翼
 ドラゴンの鱗はあらゆる外力を防ぐと言われている。剣戟も炎も、酸ですら撥ね退けるというが、それも日々の手入れを怠らなければ、の話だ。
 地下に押し込められ、鎖で縛り上げられたドラゴンの鱗は徐々に光沢を失い、脆く弱っていく。それを人の手で定期的に磨く必要があった。
 この作業を怠ったがために鱗が腐り剥がれ落ち、病を得て死んでしまったドラゴンの記録も過去に存在するという。
 うず高く積み上げられた三百年に渡る厩舎の記録を、まさか彼自身が確認したわけではない。ただ、あの金髪の娘がそう言っているのを聞いたことがあるのだ。彼女がときおり見せる、執着にも似たドラゴンへの傾倒を考えると、おそらく真実なのだろう。
 彼はまた、この鱗磨きが野生のドラゴンであれば必要のない手間だということも知っていた。野を駆け風を切る強靭な体躯は自然と研磨されていく。地下に封じられ、ただ天賦の能力を腐らせていく、人間の手に堕ちたドラゴンが例外なだけ――こちらは、厩舎の前責任者から伝え聞いていたことだ。五年前、十四になったばかりの自分の娘を置いて姿を消したあの男から。
 ジェフ・クライドのもの思いを打ち切ったのは砂利を踏みつける二組の足音だった。徐々に近づいてくる足音の主を半ば予想しながら、日報から顔を上げる。皺だらけの手が止まって久しかったことに、そのとき彼は気づいた。
 やがて、奥の側道から見知った顔が姿を現す。
 紐付きの巨大な桶を背負って現れたのは、ここ数日ですっかり馴染みになった若い騎士だ。黒髪に黒目、平民でありながら準騎士になった男、ロナン。
 彼の影からひょいと覗いた金髪は、マルグリッドだ。すぐに両腕に大量の端切れを抱え込んでいる娘の姿が詰所の薄明かりに照らされ、五年前は頼りない子どもだったのが、いまではすっかり大きくなってしまった、と彼はぼんやりと考えた。
 あの雌竜をめぐってふたりには微妙な隔たりがあったはずだが、今日は珍しくその溝が解消されているらしい。娘の心境の変化に疑問符を浮かべたところで、ふとあることに気づき、ジェフはひとり眉を寄せた。
 娘の手がふさがっているからか、先導する男が角燈を提げている。灯りを持つ手は男のものなのに、暗がりに沈みかけているのもまた男のほうだった。
 ――明るすぎるからだ。
 角燈の炎を反射する娘の金髪に、男の存在は霞んでしまっていた。
 娘の容貌は、貴族の模範体とでもいうべき理想的な組み合わせを有している。緩くうねる明るい色味の金髪に、碧空を映しこんだように青い目。太陽と蒼穹にもたとえられるこの組み合わせは、ガランガ国の開祖、初代国王がその身に顕現していたといわれるものだ。
 王は自らの血族と、婚姻で結ばれた縁戚者で周囲を固めた。それがこの国の貴族の発祥であり、時代の変遷とともに血は薄まりつつも、貴族の末端に席を連ねるものならば、どこかしらその太陽と蒼穹の証をその身に宿していた。ときおり生まれるマルグリッドのような完全形は、王族の直系でもそうそういない。飾り気なくうなじでひとまとめにしていても、光る髪はその輝きをわずかも損なわない。
 他方、男はというと、王城では侍女や小間使いを除いてあまり見ない、黒髪黒目のいでたちだ。騎士階級でははっきりと珍しいと言える、この国の平均的な平民の特徴。ひとたび市井に下りたら完全に衆人に紛れてしまうだろうものだ。
 事情を知らないものが見ると、思わずその取り合わせに違和感を覚えるほど、対照的な金と黒。それに、おそらく彼は気がついている。
 底意地の悪い、唾棄するような見解だったが、それでもジェフはわずかな懸念を消すことはできなかった。
「おい、マルグリッド、そりゃなんの準備だ」
 声をかけると、娘は若干気まずそうな顔で答えた。
「鱗を磨こうと思って。ちょうど一息ついたところだし……」
 彼が訊きたいのはそこではなかった。そんなものは準備した道具を見ればすぐわかる。
 いみじくも彼女の言ったとおり、ここ数日の激務が一段落した厩舎は、いうなれば小康状態にある。その時期にわざわざ面倒な鱗磨きをする娘の気が知れなかった。
 老人の疑念を察してか、娘はごまかすように空いた机に端切れを乱雑に置いた。そのまま隅に積んであった小ぶりな木桶に値踏みするような目を向け、水漏れの有無を確かめにかかっている。その安っぽい演技に、彼は仕方なく乗ってやった。
「まあ、そうだな。エターナはまだ二ヶ月だが、ほかの連中はそろそろ前回から……半年は過ぎたか。そうと言ってくれりゃあ準備もしてるが、急な話じゃハーラルもアシャドも呼べんぞ」
「うん、それは……」
 木桶の山から振り返り、わずかに迷うようなしぐさを見せたあと、娘は机から離れた暗がりに視線を振った。
「微力ながら、おれが力添えをさせてもらおうと思って」
 視線を追った先では、男がちょうど背負っていた桶を下ろしているところだった。その大人ひとりを押し込めそうな桶の中に、光を反射する揺らぎを認めて、驚く。
「備品庫で行き当たったのよ、偶然」と、偶然≠ノ力を込めてマルグリッドが言う。
 それを聞き流しつつ、男に目を向ける。ジェフが見ている中で、男は巨大な水桶を危なげもなく地に落ち着け、短い息を吐いた。薄明かりを受けた輪郭は疲れているようには見えない。実情はどうあれ、ひたと落ちた汗の雫ひとつだけが男の内面を語っていた。
 厩舎に井戸や水道といったたぐいの設備はないから、水はいつも水槽に貯めておくのが基本だ。いま、水槽の水はべつだん不足しているわけではない。なのにわざわざ男に水を運ばせたあたり、マルグリッドもいい性格をしているといえた。
「ありがたい申し出もあることだし、今日一日で全員の鱗を磨こうってわけでもないし、面倒ならジェフはここで待っててもらっても……なに?」
「いや、別に。どういう心境の変化かと思ってね」
 マルグリッドがこの若い騎士にいい顔を見せないのは周知の事実だ。それがいったい、今日に限ってどういう風の吹き回しか――そう暗に告げると、娘は面白いくらいにぶすくれた顔をしてみせた。
「ここの監査顧問とかいう、よくわからない役職についたんですって、彼」
 その言葉に呼応するように、いつのまにか隣に立っていた男が懐から書状を取り出し、広げてみせる。
 ――たしかに、そんな文言が書いてある。
「これからお世話になります」
 よく通る低い声で言うと、男は丁寧に書状をしまいこみ、生真面目な動作でこちらに一礼した。気配もなく彼の接近を許したことに多少の驚きを覚え、おれも年か、とジェフはおのれを嗤ったが、傍らで浮かない表情の娘を目にしたときに、それは苦笑に変わった。
 娘が男を連れてきたのは、心境の変化などではなかったのだ。
 そういうことか、と腑に落ちると同時に、なんだつまらん、と無責任な野次馬の声が聞こえて、ジェフはますます笑みを深めた。
 こちらの笑みを取り違えたのか、娘はむきになったように黒髪の男を睨みつけている。
「どうかしたのか?」
 彼女のぎらぎらとした視線を受けて、男が心底不思議そうに訊く。ジェフにはそれがいくぶんわざとらしく見えたが、娘はそんなことにも気づかないのか、うっと言葉に詰まったあと、弱々しくうめいた。
「……別に、なんでもありません」
 そのまま娘は背を向け、隅に積んでいる木桶の前にしゃがみこんだ。男が持ってきた、両腕を回しても届かないほどのものと比べると親子のような大きさの木桶を、五つ六つと手早く重ねていく。重ねた桶を抱え上げると、これ見よがしにジェフの座る机の目の前に乗せ、先ほどの端切れを一番上の桶にぎゅうぎゅうと詰めはじめる。
 男は冷静な目で、その様子を眺めている。
 だが、ジェフには、その態度が内心面白がっているものではないかという気がした。
 なぜそう思うのか。
 簡単なことだ。
 ジェフも娘をからかうとき、同じことをよくするからだ。もっとも自分の場合、真面目くさった仮面などすぐに崩れてしまうのだが。
「準備もできたことですし、そろそろ行きましょうか」
 バランスが崩れないように上手く重ねた、計六つの小桶を両腕に抱えて、マルグリッドの準備は完了したようだった。地に置かれたままだった水桶に目を向けて、男を催促する。男が水桶を抱えなおしている間に、娘がこちらに向き直った。
「で、ジェフはどうするの? 手伝ってくれるの?」
「馬鹿言え。じき交代だってのに、仕事明けの老人をこき使う気か」
 わざとらしく腕を振り上げると、はいはい、と娘は髪を揺らして肩をすくめた。
 その姿に、ちょっといじめてやろうか、と悪戯心がざわつく。
 思いつくと、にやつく笑いをこらえることができない。わざとらしいほど優しい声を作って、娘を呼び止める。
「なあ、思ったんだが」
 なに、と構えた様子で娘が眉を寄せる。勘のいい娘だが、それが役に立っているふうではないのが、マルグリッドの真骨頂ではないかと、ときどきジェフは思うことがある。
 ともあれ、少し離れた位置から男がこちらを窺っていることを確認して、言った。
「マルグリッド。これから臨時にせよ、俺たちはこの兄ちゃんと同じ職場になるんだ。――それなのに、おまえには、愛想が足りない」
「は?」
「もっと言うなら、よそよそしい。さっきから、なんだ、その背中が痒くなるような言葉遣いは」
「え?」
 虚を突かれたように、娘が碧眼をいっぱいに見開く。
 娘の態度が自分たちを相手にするときと、男を相手にするときとでずいぶん落差があるのは、彼女の心構えがそのまま言動に表れている証拠だろう。わざわざ指摘することでもない気もしたが、彼はあえてやった。娘へのからかい半分、いつまでもよそ者扱いを受ける黒髪の男に対する同情も、そこにはたしかにあった。
「そうだったかしら……」
 最初の動揺が去ったのか、娘は瞳を曇らせ、考え込むようにうつむいている。それを見て、まさか自分で気づいていなかったのか、とジェフはあきれた。同時に、よけいな世話だったか、と後悔の念が湧く。娘の態度が意図的でなかったぶん、よけいに性質が悪かった。
「あ」
 娘の理解もそこまで追いついたのか、口元を押さえ、狼狽したように目をしばたかせている。その目を泳がせたまま、娘は恐るおそるといった体で男をうかがう。男はやはりこれといった感情の波のない、凪いだように静かな目をしていた。だからといって、先刻と同じに面白がっているとはとうてい思えない。
 ――気まずい。
 ジェフはこの状況を投げた。
 自分の手が、日報の空欄に鱗磨き≠ニ記入していくのを、逃避だ、と他人事のように見ていると、「ロナン」という声がした。明らかに緊張していることがまるわかりの、少し震えた小さな声。
 だが、きれいな声だった。
「時間も、もう遅いわ。今日はきっとエターナの鱗だけで精一杯と思うけど……明日以降のほかのドラゴンが相手だって、当然手伝ってくれるのよね?」
 口火を切ってしまえば、もはや自棄っぱちなのだろう。態度がすっかり裏返り、薄い胸に虚勢を張って娘が男に告げる。
「――それは、もちろん」
 目元がふっと和らいだかと思うと、男は、にやりと笑ってみせた。
「今日ほど誠意を持ってことにあたる保障は、できかねるが」
「ふざけてないで、さっさと行くわよ」
 一度だけ引きつったように笑うと、娘は男をうながし、ジェフの机を迂回してドラゴンの寝所へつながる側道に入っていった。その足どりは軽く、危なげな様子は微塵もない。
 やがて、反響する二人分の足音は、暗闇に吸い込まれていった。ジェフは暗がりの先を暗澹たる気分で見やった。
 彼が作ってしまった淀んだ空気は払拭された。一瞬だけ男が見せた純朴な表情に、心惹かれるような予感を憶えた。それでも、最後に娘が見せた笑みのせいで、不安が消えない。
 あの、引きつった笑みの下からのぞいた、ひび割れた表情。二ヶ月前から、おりに触れて見せることのある娘の脆い一面。
 ジェフは見逃さなかった。
 だが、声をかけることもできなかった。
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