羽化を望む翼
三章. 墓穴に埋めたもの

 廃墟と墓標が立ち並ぶ村のはずれ。
 いまも昔も、この村に立ち寄るものはほとんどいない。隊商を組んだキャラバンはもちろん、旅人すら寄りつかない。
 当然といえば、そうだ。
 西の果てにあるのだ、この村に立ち寄って新たな土地を目指すものがいるはずがない。
 女神が魔性と相打ったのち魔物が急激に減少したガランガ国は、一時期開拓の波が押し寄せた。特に魔物の害がひどく手付かずだった西の大地には大勢の民がその足を伸ばした。
 だが、かつての西進も延々と横たわる荒野を前にして終わった。
 地図の上でもこの村より西は荒野≠ニだけ記され、空白に塗り潰されている。この先には、拙い絵描きの手になるような想像上の海岸線すら待ち受けていない。
 寂れた村。
 わずかばかりの村民と、人生の終着をこの地に定めたもの好き以外に顧みられることのなかったこの村に、後ろ暗い過去を抱えた連中が吹きだまるのはある意味必定だったのだろう。
 悪が悪を呼び、治安が悪化する。ますます人が寄りつかない。また悪徳の輩が集まる。また人が去っていく……そんなことを繰り返すうち、いつのまにかこの村はおいそれと辺境の自警団も手を出せない無法地帯になっていた。
 ――はずだった。

 日はじきに中天を回る。
 穴を掘っていた少年はふと手を休めた。スコップを動かす単調な音の合間に、誰かの悲鳴が聞こえた気がしたのだ。
 背丈よりも深い穴の底から、円く切り取られた灰色の空を見上げて耳を澄ませる。だが、上のほうで乾いた風の音が震えるばかりで、それは先ほどの悲鳴が思い過ごしだと自身を納得させるに十分だった。
 たとえ思い過ごしでなくとも、ここにいるのはどうせ盗賊かごろつきか。性根の腐りきった村に居ついているのは、慈悲のひとかけももよおさないような連中ばかりだ。
 ぱらぱらと降ってくる砂埃が目に入りそうになり、少年はふたたび顔を伏せた。拍子に、乱雑に伸びた黒髪が顔にかかる。それを無造作に払いのけた下から、たびたび村の男連中から生意気な≠ニいう因縁をつけられる原因になるまなざしが現れる。幼さと無邪気さをとうに擦り切れさせてしまった、虚無的に光るだけの眼。
 少年が掘っていたのは、ときには建物の基礎となる穴であり、地下水を求める穴であり、糞尿を処理する穴であり、いまは墓穴であった。
 昨日、村の女がひとり死んだ。少年が、ひょっとしたら、と思っていた女だ。
 道端に打ち捨てられ、物心ついたときにはちんぴらの舎弟にされていた少年に、ただひとり、ときおり柔らかい手を差し伸べた女。村のごろつきどもの大半もそうだったけれど、それでも自分と同じく黒い髪と瞳を持った女に、少年は静かに期待していた。
 その女を埋葬するための穴を、朝からずっと掘っている。
 土は数日前の雨を吸ったばかりで、掘るには困らない。おまけに痩せた女の墓穴ひとつだ。深さも広さもさほど必要がないと知っている。
 それなのに、ずるずると未練がましく終わりを引き延ばしている。
 こうしていつまでも穴を掘っているわけにはいかない。
 戻りの遅さを見咎められてはことだ。ひとたび村の男たちの不興を買ってしまえば、自分を埋める日もそう遠くない。
 彼は十を数えたころからずっと、村で必要とされる穴掘りを一手にまかされてきた。だから最後の日がきたとしても、この三年間と同じに違いないとわかっていた。きっといつものようにスコップを一本手渡されるのだ。暗い寝床を、自分で掘るために。
 だから、いつまでも穴を掘っているわけにはいかない。
 ――わかっているのに、自分の手は相変わらずせっせとスコップを動かしているのだから。
 自覚すると、おのれの情けなさが嗤えてしかたがなかった。
「…………」
 はたと少年は動きを止めた。
 虚ろな笑いを引っ込め、耳を澄ませる。土の中だからわかる。遠くから地鳴りのように近づいてくるものがある。
 かすかなうなりはやがて地響きに変わり、無数の軍靴が打ち鳴らす足音と馬蹄に化けた。
「――騎士が! 王都の掃討隊のやつらだ!」
 空耳ではない、本物の叫び声が少年の耳朶を打った。
 騎士という言葉に反応した身が、強張る。村の男たちが酒の肴に口にするやつら。いつか自分たちを征伐しにくると、いや、返り討ちにしてやると息巻く男たちが、真実怖れてやまないもの。
 そいつらが、きたのだ。
 穴の底にしゃがみこみ、息をひそめる。風にまぎれて聞こえてくるのは、村唯一の酒場でよく耳にする乱闘騒ぎに似ていた。
 手のひらをこすり合わせて泥を落とす。乾いて白っぽくなった泥の下から、日々の暮らしに分厚くなった皮が現れ、そこに構えるように木の柄を握りなおす。
 悲鳴。号令。男たちの怒号。剣戟。だれかが泣いている。穴の外で、取り返しのつかないことが起こっている。上から降りかかってくる埃に金臭いにおいが混じりだす。風が、血なまぐさい喚声を連れてくる。
 荒くなっていく息を押し殺し、少年は待った。墓地は村の外れだ。こうして待っていれば嵐は去る。見つかりはしない。ここは虫けらがもぐりこむ巣穴。こんなところまで足を運ぶやつなどいない――。
 どれぐらいそうしていたのか。
 気がつくと、村は奇妙な静けさに包まれていた。風が桶を転がす音と、興奮した馬のいななき、それから男たちが交わす言葉。静寂を破るものはあっても、どれもこれも白々しい余韻を残して殺伐とした空気の中に消えていく。
 だから、いやに耳についたのかもしれなかった。近づいては離れ、あてもなく辺りを徘徊していた騎士たちの中から、目的を持って少年の潜む穴に近づいてきた、そいつの足音が。
 身体が地中に沈めばと祈る暇もなかった。穴に差し込む光が翳り、少年は茫然として顔を上げた。
 銀の甲冑に身を包んだ男が、彼を高みから眺めている。逆光で顔の詳細は隠されているものの、光の透ける輪郭から男が金髪であることも、その眼が間違いなく自分の姿を捉えていることも、疑いようがなかった。
 震えることを自身に禁じて、少年もまた男を睨み返した。
 引き延ばされていく無言の時間の中で、緊張だけが増していく。木の柄はとっくに固く絞られた手のひらに張り付いていて、剥がすことはできない。よしんば剥がせたとしても、少年はそんな真似をするつもりなど毛頭なかった。
 耐え切れなくなってこちらが反応を返したとき、きっとこの男は自分を殺すのだと、ただその直感ひとつが少年を湿った穴の底に縛り付けていた。
「騎士長どの、どうなされました」
 ふいに響いた若い声は、男を呼ぶものだったのだろう。均衡が打ち破られ、交錯していた視線が外れた。穴の底に光が当たる。男が身を引っ込めたのだ。
「残党は」
「は、西に逃げ込んだのが何人か。……この穴は?」
 穴の外で交わされる会話に、今度こそ少年は息を止めた。だが、地上にいるはずの金髪の男は、なんでもないことのように平然と言い放った。
「死体が転がっているだけだ。それより、空白に入った残党を追わせろ。禍根はここで断て」
「承知しました」
 生真面目な声が応え、直後に走り去る足音を穴の底で聞き、さらにしばらくの間、じっと息を殺して気配を研ぎ澄ませて待った。十分待ちすぎるほど待って、無言の時間が続いても、少年には金髪の男がその場から去ったことに確信を持てなかった。
 わからない以上、慎重になれるだけなるほかない。
 やがて、この場にあるのは風が砂塵を撒いてうなる音だけということを認め、ようやく少年は安堵の息をついた。ふらふらと立ち上がり、音もなく土の壁にもたれかかる。
 騎士たちは去った。助かったのだ。なぜかはわからないが自分は死なずに済んだ。穴を覗き込んだ、あの騎士の温情に生かされた……。
 そのとき、銀光が鼻先をかすめた。
 天から降ってきた銀の刃はずぶ、と湿った土の底にめり込み、墓標のように突き立った。貫かれた場所は、先ほどまで彼が座り込んでいた位置と寸分違わない。
 ぱらぱらと降ってくる砂埃にも構わず顔を上げるが、狭い円形の視界の中、男の姿はどこにも見えない。
 ――ははははは。
 一度だけ、男の吹き上げるような笑い声が聞こえた。それきりすべての音は遠ざかった。
 少年は一昼夜穴の底で待ち、翌朝、剣を引き抜いて騎士たちの足跡を追いはじめた。
 彼らは、東に向かっていた。
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