羽化を望む翼
 東塔入口に構える騎士団本部の階段を降り、扉をあけた先で待っていた男は、やはり不機嫌な表情をしていた。遅い、と言い捨て、マルグリッドが差し出した書類を奪い取るようにひったくる。
 ザイル・パルメンティアという名の、線の薄い、マルグリッドよりひと回り近く年上の騎士だ。厩舎を定期的に訪れ、ドラゴンの監視を担っているのもこの男だった。
 傲然とした態度にはそれを裏打ちする階級がある。すなわち彼は、マルグリッドと違い、準騎士でない本物の騎士だった。
 忠誠、能力、身分。
 本来ガランガ国で騎士≠フ地位を賜ることができるのは、不断の鍛錬を積み重ね、この三つを兼ね備えた者だけだ。ザイルも、東塔の前で絡んできた茶髪の騎士も、こちらの正騎士の位にあたる。
 マルグリッドのような準騎士≠ヘ、どれかひとつでも欠けた半端者に与えられる称号だった。内実が欠けているのだから、当然外見も正規の騎士と同じというわけにはいかない。準騎士は正規の騎士よりも若干短い剣を腰に拝領するので、そのいでたちからすぐに見分けることができた。
 準騎士の中にも、まれに例外がある。
 傑出した能力を持ち、ガランガ国に貢献をもたらした場合――もしくは正騎士の名誉を与えることでより高次の国益をもたらす働きをするだろうと判断された場合、この取り決めは度外視されることがあった。
 もっとも有名な例を挙げれば、麗しのエンディアがそれにあたる。あの風変わりなエルフは遠い昔に森を出て、ガランガ国創生期の騎士団に入り込んだという。
 当時の騎士団は、使い道も知れぬ魔法使いの遺産を持て余していた。
 大陸にいつのまにか現れ、気がついたときにはいなくなっていた魔法使い。彼らの残していった不思議の道具の数々だが、その大半が作られた目的もわからなければ使用法もわからないというものばかりだった。
女神≠ニ崇められた女もまた魔法使いの眷属のひとりだった。だが、魔性との戦いで人の側についた彼女も、自分たちの道具の使い方まで人間に懇切丁寧に教える気はなかったらしい――あるいは、あったのかもしれないが、その機会は失われてしまった。
 圧倒的な寿命と、それに裏付けされた知識を持ったエルフが人間に代わって魔法使いの遺産の管理を任せられるようになるまで、そう時間はかからなかったのだろう。彼は百と少しばかり前の年に、当時の国王から正騎士の位を授与されたという話だった。
 ……そんなことよりも、いまは目の前の男だ。
 ザイルの手によってだろう、資料庫の中にはすでに灯りが持ちこまれていた。明るすぎるというほどでも、暗すぎるというほどでもない光は、燭台のろうそくがもたらしている。
 うすぼんやりと照らし出された室内には古い紙のにおいが染み付いていた。居並ぶ棚の列だけでは飽き足らず、壁に寄生するようにうず高く積まれた書類の数々は、騎士団に関するすべての来歴を記している。
 資料庫は、広いが、狭い。
 ろうそくの光も届かない奥までずっと続いている棚の列が、この空間を半分以上狭く見せていた。
 ここに来るたびマルグリッドは息苦しさを覚える。
 ザイルという気詰まりな男と狭い空間にふたりきりという状況もそうだが、なにより自分たちのちっぽけな若さがこの空間に異質だということをどうしても意識してしまう。
 じりじりとろうそくが焦げる音と、紙のまくられる音がいやに耳につく。
 男の手が前触れなく止まった。
「これはなんだ」
 そのまま一番上に重ねられていた書類を一枚、マルグリッドのほうに差し出す。醒めた緑色の眼にうながされ、マルグリッドは受け取った紙に目を通した。日報のほうだ。
 日付は昨日のもので、となると、彼がどこを見咎めたのかは考えるまでもなかった。
 見慣れた、どこか几帳面な筆跡。
 アシャドの手によって記された、訪問一名という記述。
「ロナンという準騎士がきました。ご存知でしょうが、平民出身の男で……」
 言いかけ、マルグリッドは少し考えた。彼が厩舎を訪れた理由を素直に目の前の男に告げるのは抵抗があった。
 マルグリッドは中途で言葉を止めたが、男は思いあたる節でもあったのか、すぐに苦々しげに吐き捨てた。
「あの男は厩舎にきて、何をしていた?」
 まさしく核心を突いた問いを向けられ、内心焦ってしまう。ここは隠すよりも当たり障りのない程度に事実を述べたほうが正解かもしれない――マルグリッドはふと沸いたその考えを信じることにした。
「とりたててなにか、というわけでは。単に新入りのドラゴンに興味を引かれて、足を運んだ様子でした」
「あのドラゴンだと? やはり、やつめ……どこから嗅ぎ付けた。それとも、まさか」
 うつむき、ひとりなにごとかをつぶやく男の姿を見ているうちに、外で会ったオスロという騎士の面影がそこに重なった。髪や瞳の色、年恰好に多少のずれがあっても、マルグリッドの目に映る彼らの姿はひどく似ていた。
「……彼が、なにか問題でも?」
「おまえに関わりのあることではない」
 そこだけ隙なく切り捨て、男は顔を上げた。
 影に縁取られたその顔がいびつに歪んでいくさま目の当たりにして、マルグリッドは自分の目を疑いそうになった。はじめて見たのだ――ザイル・パルメンティアが笑っている。
「そうだ、おまえには関係ないんだ」
 錯覚ではなかった。まぎれもなく男は笑っていた。だが、細面をいろどる表情は、夜会で貴婦人の目を引くものでも、儀礼と慇懃さの上に成り立つものでもなかった。ただ、見るものの背筋を凍らせる笑み。
 ――関係ある≠フだ。
 直感に過ぎないが、マルグリッドは男の嘘を悟った。
 あの黒髪の男と、オスロという騎士。冷笑するザイル。形は違うにせよ、彼らが緑鱗のドラゴンに対してなにかを企んでいるのは間違いなかった。
 そして、自分はそれがなにかも、いつからはじまっていたのかも知らない。いまになって水面下で進んでいた包囲網の、やっと尻尾を掴んだ、それだけ。
「本題に入る」
 それまでの笑みを嘘のように引っ込め、男は表情を改めた。それにしたがい、マルグリッドはあやふやな疑惑に拘泥している場合ではないことを思い出した。
「日程は急だが、交配の話自体は前々から伝えおいたはずだ。どこまで話を進めていた?」
「はい。……厩舎としては、雌竜の相手にその黒竜を推しています。フロンティンならば、ここしばらく機嫌も安定していますし」
 マルグリッドの言葉を受けて、男の目がドラゴンたちの行動所見に移る。
「それで?」
「交配の方法はいまだドラゴンから聞き出せていません。ひとまず初回は五日後ということでしたが、手探りの状態では、上手くいかないことも予想されます。最善を尽くしますが、長丁場になる覚悟も必要かもしれません」
「最善を尽くす、か」男はマルグリッドのほうを見ずに吐き捨てた。
 言葉の端から、微妙な猜疑が見えた。
 マルグリッドは、翼の傷を理由にドラゴンの交配に難色を示すという立場を取っている。それを、騎士団の干渉を避けるためだけの口実と見抜いているような鋭さがこの騎士にはあった。
 正面切って指摘されたことは一度もない。だが、男が折に触れて見せる言動を見ていると、彼がマルグリッドを疑っていることは明らかだった。
 ――これ以上、ぼろを出す前に話を切り上げたほうがいい。
「当日の予定は追って連絡します。時刻はドラゴンの様子を見て決めますが、おそらく夜分になるかと。場所は使われていない廃道の中に、広いものがあるので、そこで」
 ともすれば早口でまくしたてそうになるのを抑えながら、頭の中で用意してきた言葉を順番に並べる。
 それに対して男が意見を返すこともなかったので、マルグリッドはほっと息をついた。こまごまとした二、三の確認を終えれば、あとは一礼をしてきびすを返すだけで、ひとまずの難儀は乗り越えたことになる。
「では失礼します」
 床に沈殿する埃を避けながら男から遠ざかる。資料庫の閉ざされた扉を押しあけ、開いた隙間から地上へ続く階段へ向かおうとしたとき、
「最善を尽くすと言ったな」
 背中に声をかけられ、足が止まった。
 呼び寄せられるようにマルグリッドは振り返った。男は燭台と書類を別々の手に持ち、部屋の中央で立ち尽くしている。緑の瞳が致命的な光を宿して揺れている。マルグリッドの背中に震えあがるような戦慄がはしった。
「この国でやつらの声を聴ける者はひとりだけになった。ハシェット・エイビーがあの忌々しいドラゴンとともに消えてから」
 ハシェット・エイビー。
 完全に無防備だった死角からの一撃に、強張った表情を繕うことすら忘れた。
 予想もしていなかった名前。
 五年前にいなくなってしまった男の名前。
 それが呼び覚ますのは追憶と憧憬――それから、憎しみと呼ぶには遠ざかりすぎてしまった怒り。
 二ヶ月前までは違った。
 絡みあった感情の手綱をうまく取っていたつもりだった。自分と向き合うやりかたは、厩舎の闇の中でゆっくりと学んでいたから。都合のいい暖かな思い出だけを選んで、取り出して、懐かしんで、最後の最後で手のひらを返したように憎悪の気焔を吐いていればよかった。
「裏切り者の娘。私にはなぜ騎士長がおまえの嘆願を聞き入れ、いまもってあの野生竜を始末しないのか、理解できない」
 こちらの浮かべた表情のひとつひとつを吟味するように、ゆっくりと男が近づいてくる。
 ――うらぎりもの。
 ――裏切り者の、娘。
 後ろ指を指されつづけた歳月。それに耐え切れず、自分は養父と違うと示すために起こした行動。それなのに、あの日からすべてが変わってしまった。
「騎士長がそうと決めたなら従うまでだが……せいぜい、ここらであの男と違うというところを見せておくんだな」
 最善を尽くすというならば。
 耳元でそう告げると、男は手の内の炎を吹き消し、マルグリッドの脇をすり抜け扉をくぐっていった。
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