羽化を望む翼
二章. 金の鎖

 夢の中で走っていた。
 暗い森の中。頭を振っても、四方すべての視界は等しく木々に奪われていた。それでも、目的地はわかっている。木立の向こう側から声が聞こえてくるのだ。悲鳴、怒号、哀願――断末魔。声は徐々に間遠になり、その音量さえも減じていた。
 急がなければ間に合わない。
 森を焼け出された獣のように、すべてを投げ出しとにかく前へと駆ける。だが、ここではいつも足が重たかった。泥に取られたわけでもあるまいに、しかし一向に進んだ気はしない。声が小さくなる。焦りばかりが大きくなる。
 ふいに視界が開けて、明るみの中へ転がり出る。
 焦げたにおい。
 そこだけぽっかりと焼き払われた、森の穴。
 低く重苦しい空が曇天なのは、夢の中での決まりごとだった。目を下に戻したとき、そこに幾人もの騎士と、彼らに囲まれ倒れ伏しているドラゴンがいるのも。
 空気はすでに燻され、淀んでいた。
 その場に残されているのは、なにかが達成されたあとの倦怠感だけ。彼女は、間に合わなかった。
 悔恨がその場に足を縛りつけている間も、騎士たちは黙々と動いていた。顔のない、輪郭のぼやけた幽霊のような甲冑たちが、ぴくりともしないドラゴンを囲んでいく。そうして彼らが二まわりもしたころには、鈍色の鎖が哀れな巨体を一分の隙もなく縛りつけていた。
 ――おちびさん、覗きはいけないな。
 背後からの心臓が止まるような声に飛び上がる。だが振り向くより早く、彼女は誰でもない男に吊り上げられていた。
 ――子どもがいたぞ!
 男の声に応え、ひときわ目を引く甲冑に身を包んだ騎士が歩み寄ってくる。くすんだ金髪は短く刈られ、灰色に光る眼は獲物を捕らえて輝いている。あいまいな夢の中で、彼だけがはっきりとした色と顔を持っていた。
「変わった着飾りかたをするものだ」
 引き出され、放り投げられて転んだところに、声とともに大きな手が伸びてくる。髪に触れた手が、離れたときには折れた小枝をつまみあげていた。
「さて、お嬢さん、君がどうしてここにいるのか、答えてもらおうか。私はあまり気の長いほうではないのだ」
 言葉の通り、後方に放り投げられた小枝が地面に落ちるまでが残された最後の猶予だった。
 そのときどう答えたのか、詳しい記憶はない。だが、稚拙な嘘をこしらえたことぐらいはわかる。たまたま迷いこんでしまったのだとか、山菜摘みの途中に変な音が聞こえたからだとか。
 自分の体中についた擦り傷がわき目も振らずにこの場へ突進した結果を物語っていることも、そもそもこの森に人間が食せる山菜などほとんど自生していないことも知らなかった子どもは、あっけなく嘘を看破された。
 それから八年、ずっと城で暮らしている。

 もう朝だろうか。
 泥のような眠りと気だるく迫る覚醒の狭間で、だれとはなしに問いかける。
 常にひやりとして薄暗い、昼夜の境があいまいな地下厩舎で過ごしていると、ときどき本当の時間を見失ってしまいそうになることがあった。そんなときは耳を澄ませばいい≠フだと、教えてくれたのは誰だったか……。
 ――耳を澄ませばいい。ドラゴンが静かにしているならば、それは朝だ。
 そう言って、大きな手で彼女の頭をなでてくれたのは――。
 薄い毛布と倦怠感、それから夢の残滓を体にまといつかせたまま、マルグリッド・エイビーは簡易寝台から身を起こした。
 復活祭から一夜明けた朝――のはずだ、おそらく。
 胸いっぱいに息を吸い、過ぎ去った過去に混乱ぎみの頭に活を入れる。お世辞にも清浄とはいいがたい厩舎の空気だが、それでも効果はあったようだ。まぶたの裏に雑然と浮かんでいた現実と日常が、ひとつひとつあるべき場所に収まっていく。
 すると同時に、前夜の馬鹿騒ぎについて思い起こさないわけにもいかなくなるのだった。
 昨晩マルグリッドの前で演じられた、それこそ悪夢のような茶番は、立て続けの轟音に懸念を覚えたというジェフの登場によってあっさり幕引きとなった。
 老騎士は、ぼんやり立っていたマルグリッド、それから固まっていたドラゴンとその喉に触れていた男を見て――信じがたいことだが――瞬時に状況を理解したようだった。
 彼の放った「性急な男は嫌われるぞ」と、ただその一言で男はドラゴンから離れた。そのとき男の顔にふと浮かんだ傷ついたような表情に、マルグリッドのほうが罪悪感を覚えたほどだったが、彼が去ったあとに老騎士は彼女の金髪をくしゃりとやった。
「あの手の男には、あれくらいがいい薬だ」
 なにが、という顔を見せたマルグリッドに、
「やっぱりおまえはまだ子どもだ、経験が足りん」
 老騎士はそう笑い飛ばした。
 どこでどのような経験を積めば人間とドラゴンの機微が理解できるようになるのか。マルグリッドにははなはだ疑問だったが、とかくジェフの一言で事態が収拾したのは間違いのないところではあった。
「ま、なにごともなくて良かった」
 一方的な締めくくりのあと、もう一度髪をかき混ぜられる。あからさまな子ども扱いに辟易したマルグリッドが抗議の目を向けると、老騎士がこちらに向けていたのは思いがけないまっすぐなまなざしだった。
 表向きの言動はどうあれ、その表情を見たとたん、冷水を浴びせかけられたような感覚にマルグリッドは愕然とした。
 彼が気にかけていたのは轟音の正体でも、ましてや男の告白の首尾などでもなかったのだ。
 よくよくすれば思い当たってしかるべきだったのかもしれない。
 薄暗い地下でそれほど親しくない男とふたりきり、ではないにしろ似たような状況だったのだから、ジェフが親心を発揮したのも当然といえば、そうなる。
 もちろん、心配されるようなことはなにひとつ起こらなかったのだけど。
 急に弁解をしなければならないような義務感に駆られて、自身の負った擦り傷の説明をはじめたマルグリッドだったが、老騎士はぐすりと表情を崩して彼女の背を叩いただけだった。
 結局、一瞬だけジェフが見せた目は、いまも本気か演技か見分けのつかないままだ。
 思い起こした昨夜の記憶にマルグリッドはひとり苦笑して、肩で息をついた。寝台の隅にまるめていた衣服に手を伸ばす。しわの具合とにおいをたしかめ、もそもそと着こむ。
 簡易寝台は、詰所からほど近い側道の奥に設けられている。すでに何度もお世話になっているマルグリッドにとって、暗闇といえども、この空間でいまさら注意する事物は少なかった。壁に片手をつきさえすれば、灯りのある詰所までの道はたやすい。せいぜい、道中足元に同僚たちの予期せぬ私物が転がっていないことを祈るばかりだ。
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