羽化を望む翼
 喧騒を背後に、そっと宴席を抜け出す。
 騒ぎにかまけた広間から一歩外れると、城内はしんと静まり返っていた。
 手を変え言葉を変えドラゴンとの仲立ちを頼んでくる男から逃げ出す方策として、結局マルグリッドは宴席自体からの逃亡というやり方を選んだ。選ぶ羽目になった。
 どうせいたところで楽しめたわけでもないのだ、そう悪い選択ではない――そう、負け惜しみのように思う。
 ひと気の少ない廊下を足早に過ぎ、中庭に出る。
 マルグリッドが下り立った庭は方形で、うち三辺が高い煉瓦塀で囲まれている。そのため貴人たちの抜け道として使用されることもなく、冬を除いて一年中草木が奔放に伸び放しになっていた。ときに、憎からぬ仲の男女が行う密会の場所に定められることもあるという。
 だが、うっそうとしたやぶが隠すのはなにも恋人たちの逢瀬だけではない。
 茂みをかき分けたマルグリッドの腕の先に現れたのは、蔦に覆われた煉瓦塀に同化しかけた鉄製の扉だった。腰にぶら下げていたもののうち剣帯ではないほうをそっと取り外す。半分錆びた鍵と鍵穴がこすれあう音は、遠くであがった誰かの嬌声にかき消された。
 マルグリッドは背後に人の気配がないかをたしかめた。あの男に尾行されている可能性も、なきにしもあらずだ。
 幸い、闇に慣れた目に怪しい人影は認められなかった。
 すばやく戸の内側に滑りこむ。入口すぐの壁に掛かっていた古びた角燈を取り外す。三度強く振ると、中心の芯がぱっとまたたき、火が灯る。仕組みはわからないが、昔の魔法使いが作ったというこの角燈の便利さには本当に舌を巻く。
 ふたたび腰の鍵束で施錠すると、マルグリッドは石段に足をかけた。二十ほどの段を下るとあとは緩やかに下へと傾斜する薄暗い地下道が続く。
 耳に入る物音が、靴音と、自分の息遣いだけという長い時間が過ぎる。あるいは静かに脈打つ心音が聞こえるときもあったかもしれない。
 ほとんど頭上にまで迫る土くれの天井。
 肩をぶつけずには人とすれ違うこともできないだろう狭い通路。
 だが、それによる息苦しさも、あるところを境に増してくる黴と獣のにおいでさえも、マルグリッドに感情の喚起を呼び覚ますことはなかった。それらに心を波立てられるのは、昔日の話になっていた。
 靴底が伝えてくる地肌の様子がわずかに変化する。砂利の上を歩くような感覚は、目的地への道程が終わりに近づいていることを示していた。
 竜厩舎と呼ばれる場所にマルグリッドがたどりついたのは、それからほどなくしてのことだった。
 ガランガ王城西方、城の後背に位置する丘陵地をくり抜いた洞窟。地ネズミの巣穴のように縦横に走った坑道は、丘陵地が鉱山だったころのなごりだという。いまではかつての太い貫道はそのままドラゴンの寝所になり、多くの側道につながる集線の中心は厩舎に勤める者たちの詰所となった。
 マルグリッドが足を向けていたのは、その詰所だった。
 べつだん、やり残した雑務があって向かっているわけではない。マルグリッドは厩舎の責任者という大層な肩書きを持ってはいるが、今日の仕事は同僚が肩代わりしてくれることになっていたからだ。
 そこまで思いをはせて、マルグリッドは彼らが自分に見せる甘さにひとりはにかんだ。
 厩舎は辺鄙な位置に存在する。実務もドラゴンの機嫌をうかがうだけの(だけと断言するにはあまりに労力の要る仕事だったが!)閑職だった。
 武装盗賊が西部を脅かしていた十年前まではいざしらず、平和ないまの治世ではお呼びがかかることもない。
 国を挙げての行事に、首輪をかけたドラゴンをつれて示威行為をするのがせいぜいの役回り。
 だからかどうかは知らないが、竜厩舎に勤める者は概して引退間際の騎士ばかりだった。それでも、親元を離れ、十四のころからそういった騎士たちとドラゴンを見てきたマルグリッドにとっては、彼らはほとんど家族のようなものだった。
 向こうもマルグリッドの幼い思いに気づいていたのか、いつだかの誕生日に似たようなことを言われたこともあった。
 自分を実の娘のように思ってくれているというのは、嬉しくもあり、五の歳を重ねたいまでは少しむず痒くもあった。
 そんな年の離れた同僚たちの甘さにかまけて、宴席で疲れた心を癒してもらおう、マルグリッドにあった算段はそれだけだった。
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