羽化を望む翼
プロローグ.

 ガランガ国王城西方に位置するグマの丘、その中腹。うららかな春の日差しは傾き、岩がちな丘陵地は、緑と橙の混じったまだら模様の中に影を抱え込んでいる。
 そのぽつぽつと点在する岩影にまぎれて、ひとつ巨大な影と、それに寄り添うような小さな影があった。
『おぬしのせいだ』
 あと一刻も我慢すれば日没だ。娘は自身にそう言い聞かせ、西日を浴びながら、頭の中に響いた声に対して聞こえないふりをした。
 ときおり吹く風が、膝の丈ほどある下草と、彼女の肩にかかるまでの金髪を揺らしていく。一日の終わりを告げる、少し湿り気を含んだ心地のいい風だ。
『繰り返すが、おぬしのせいだ』
 夕日で染まる丘の裾野が、ふいにきらりとまぶしい光を放った。娘がちらと眺めやると、騎士団連中が隊列を組んで演習をしている姿があった。板金の甲冑で全身を固めた彼らにも、こちらの足元をそよがせた風は届いているだろうか。
『ああ、まったくすべておぬしのせいだ』
 風が草を鳴らす音に、ときおり金属の擦れあう音が混じる。頭に直接響くこの声を差し置くと、彼女がいま一番聞きたくないと思う音だ。これを耳にするたび、現在直面している問題から逃避できないことを思い知らされる。
『おぬしが余計なことをしたから、我はいま、このような屈辱を受けねばならぬ』
 陰鬱な声がこぼす愚痴に耳を傾けていると、こちらの気分までが滅入ってくる。しかもこれを半日続けられているのだから、滅入るを通り越していらいらしてくるというのが本音のところだ。
 が、そんな様子はおくびにも出さずに、娘は西を向いて目を細めた。沈みゆく太陽が眩しい。
『あのときおぬしがしたことは余計なお世話だったのだ。それも最悪の部類のだ、わかっておるのか?』
 早く陽が沈まないだろうか。そうすればこの陰険な愚痴ともおさらばだ。代わりに夜勤のジェフが胃に穴を空けるかもしれないが、彼はこの愚痴を直接聞くわけではない。声の主もそれをわかっているから、無意味な愚痴もこぼすことはないだろう。代わりに地味に暴れるかもしれない、鬱憤晴らしと称して……娘は気のいい老騎士に少し、同情をもよおした。
『こうして生き恥を晒すくらいならば、あのとき死んでいたほうがましだった。だというのに、おぬしはその機会すら我から奪っていった……』
「その割には、城に着いてからの治療をおとなしく受けてたわね」
 無視しようと努めたはずが、気がつくと、そんな言葉が口を突いて出ていた。夕日から目を離し、傍らの巨体へと向き直る。顔を上げると、こぶし大ほどの、濁りのない翡翠の瞳が高みから娘を見つめていた。
『誰が望んで人間の手など借りるものか。翼に槍が穿たれているままでは格好がつかぬゆえ、仕方なしに受けてやったのだ』
「格好をどうこう言うのなら」
 これが皮肉な笑みに見えればいいと、娘は自信のないまま、顔にそのような表情を貼りつけた。見上げた先で瞳に映る自分の姿は、小さく潰れて顔の微細もわからない。
「いまだって鎖に身を縛られているじゃない」
 巨体が身じろぎして、その身を縛る鎖がかすかな音を鳴らす。
『……無論、容姿の問題だけではない。我は生きとし生ける者の頂点に君臨するドラゴンぞ。竜種の血は貴重なのだ、無為に流すなど許されぬ。であるからして』
「どうせ痛いのが嫌だったとか、そんなところでしょ。なら素直にそう言えばいいのよ」
『言わせておけば、ぬけぬけと……!』
 怒りに身を震わせたドラゴンの体が、ひと回り膨ら――もうとしたところで、ドラゴンの全身を覆う鎖がぎゅっと四肢を絞めあげた。途端、辺り一帯に悲痛な咆哮がほとばしる。先ほどまで頭の中に響いていた声とは違う、痛みを伴った本物の肉声。鼓膜だけでなく魂の底までびりびりと震わせる、聞く者の理性を恐怖で剥ぎ取る甲高い声。
 鱗を砕かんばかりに絞めつけていた鎖が緩むまでドラゴンの悲鳴は続いた。娘が我に返ったのは、どうと音を立ててドラゴンが地に伏せ、丘を渡る風が草を撫ぜる音がようやく周囲に戻ってきてからだった。
 ぜいぜいと腹で荒い呼吸を繰り返しているドラゴンに、内心の動揺を押し殺して娘は告げた。
「暴れたってもう無駄なのよ。ここで賢く生きるには、おとなしくするのが一番いい……あんただって、本当はわかってるんでしょ」
 顔は逸らさないまま、腕だけを伸ばして魔法使いが鍛えたという鎖の端をつかむ。ざらついた感触は蛇の鱗を連想させた。
 温度のない鈍色の蛇は獲物を決して逃しはしない。
 傷ついたドラゴンもその例外ではない……。
 膝で下草を踏みわけ、傍らにしゃがみこむと、萌え出る草の青臭いにおいが肺に飛び込んでくる。鎖から手を離し、娘は腹ばいになったドラゴンの首に手を伸ばした。
 そっと撫でてみる。
 ドラゴンは黙っている。
 もう一度撫でる。
 ドラゴンはやはり黙っていた。なすがままにされている。
 やがて、娘はいくつかのことに気づいた。ドラゴンの喉はそこだけ鱗に包まれておらず、柔らかい膚が張っていること。ひんやりとしていて思ったよりも触り心地がいいこと。――自分がやはり罪悪感を抱いていること。
 自覚した意識から追い立てられるかのように立ち上がると、娘はドラゴンの横に回った。腹ばいになったドラゴンの体高は、それでも娘の背丈より少し高いくらいにはある。巨体に幾重にも巻きついた鎖、うち娘の目の高さほどにあった一本を見て、彼女は顔を歪めた。鎖の下敷きになっている鱗に、数枚ひびが入っている。
「あんたはもう国の所有物なの。鱗一枚欠けても私が始末書を書かされる……あまり無茶をしないでちょうだい」
 緩やかに起伏する地平線に、陽が半分沈んでいた。
 待ちわびたはずの日没も、心を晴らしてくれない。娘がほとんど水平になった赤光を浴びながら立ち尽くしていると、ようやくドラゴンが声を返した。
『我は人間に跪くなど耐えられぬ』
「跪かなくても……ほかにやりようがあるわよ、きっと」
 ふと気がつくと、裾野で隊列を組んでいた騎士たちが動きを止めていた。こちらの騒ぎを注視していたのかもしれない。
 ばつの悪い思いをなんとか飲み込むと、娘はドラゴンをうながし竜厩舎へ帰る路をたどりはじめた。縛られ、短い歩幅になってしまった足に手を添えて。

 この出来事のせいで、のちにとんだ災難が降りかかることになろうとは、娘もドラゴンも知るよしもなかった。
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