珪化の国
ミスラ 24

 その扉を初めて目にした者は、一様にそのあまりの大きさに圧倒され、次いで、扉の向こうに坐する資格を持つ者の権威を察して、身の引き締まる思いがするだろう。
 二の幹を最上段まで登りつめたミスラは、玉座の間に至る扉の前で、しばしの感慨にふけった。だが今、この向こう側にいるのは悪魔だ。そして、悪魔を滅ぼすための運命を、ミスラはとうとうここまで連れてきた。
 倒れたキキオンが動けるようになるまで、どれくらいの時間を待ったのか、ミスラはあまり覚えていなかった。星の動きも分からない樹幹の中だ。ミスラはキキオンのまぶたが閉じては開く回数を、減らぬ松明を片手に数えていた。枯れ草色の瞳が、隠れたり、見えたり、伏せられたりするのを見て、眉をしかめられたり、怪訝な顔をされたりするうちに、やがてキキオンは低い唸り声を発しながら片手をついて石段から身を起こした。首にこびりついていた血はほとんど固まっていたのか、キキオンが外套を巻いた手の甲で拭うと、傷口の一点を黒く残して、あとはきれいに取れてしまった。
(どう?)
「……悪魔は、殺す」
 ミスラの質問に正しく答えを返すと、キキオンはよろめきながら立ちあがった。始めはおぼつかない足取りで、介助しようとするミスラの腕を振り払うことすらままならない様子だったが、石段を登り続けるうち、キキオンの不調は徐々に回復したようだった。こうして扉の前までたどり着いた今では、首に残る傷跡がなければ、平時との差異を見つけることもかなわないだろう。
(あなたは、ここに来るのは二度目だったわね)
 隣に立つキキオンに言うと、彼は小さく頷いた。
 下層から枝分れしては関所のたびに合流し、また階層の最初で分岐してを繰り返してきた螺旋階段の群れは、登りつめた二の幹でようやく終着点を迎える。石段の末は突然現れた天井のような珪化木の塊に蓋されている。それまで樹幹の中央を吹き抜けにしていた洞が途切れ、正真正銘の区切りの層が渡されているのだ。城の住人たちが「ウラシルのかんむり」と呼び習わしていた石の天井には、人が通り抜けられるくらいの、細い縦穴が一つだけ開いている。そこを登った先が一の幹で、今現在ミスラたちがたたずんでいる、玉座の間につながる巨大扉の前の空間なのだ。
 縦にそろえた人間を五人分くらい並べた高さ幅を持つ両開きの扉は、城を形作る珪化木をどこからか削り取ってきて成形したものらしい。石造りでなおかつ並外れた分厚さを誇っており、その強靭さと重量から、何人たりとも開け放つことはできないのだった。この扉を開けることができるのは、白髪城の主たるウラシリオロの王族だけだ。血族だけが太古の秘術で扉を自在にできるのだ。
(私もそう。ここに来るのはこれが二度目)
 第五王女は正しく自分が父王の娘であることを知っていたが、それは彼女と、彼女の母親だけが確信していたにすぎない。初めての呼び出しのことは、よく憶えている。十二歳を迎えて直ぐの頃だ。既に母親である第五妃は亡く、第五王女は第二王女シロラマロモッコに手を引かれて扉の前までやってきた。
 母親は外戚の美女だった。あとで教えてもらったことだが、本来は第五王女に扉を開けさせ、血族鑑定を行うことがそのたびの呼び出しの真意だったというのだが、結局、直前になって、父王の横槍が入り、扉はシロラマロモッコが開けることと相成った。
 対面はつつがなく終った。また四日かけて自分の屋敷まで戻り、自分の寝台に横たわり、第五王女は扉の向こうで見た父王の顔と、シロラマロモッコから聞いた話を思い返して、ようやく気がついたのだ。父王は怖れていた。今さら本物だったとして、どうする? どうしようもない。淡い悲嘆のうちに世を去った第五妃は還らないし、英知ある王は第五王女の眼の中に王を王と仰ぐ気持ち以外の何物の情を認められなかっただろう。
「御託はいいから、さっさと開けろ」
(そうね)
 ミスラは軽い手つきで扉の中央部分を右手で押した。始めは硬い感触だけが返る。ミスラは人形のまぶたを閉じた。音が聞こえてくる。鼓動の音。第五王女の生きる証、心臓の音が。
 前触れはなく、扉は突然開いた。指先から押していた感触が失せてミスラは目を開けた。両開きの、左右どちらが開きすぎるということもなかった。水面を舟が行くように、扉は滑り、人がちょうど二人通れるだけ開いて、また緩やかに止まった。地響き一つなかった。
 正面から、冷えた、湿り気のある、夜の風が流れてくる。玉座の間はそのまま外界、大樹の樹冠部につながっている。
 扉の向こうの遙か頭上では石になった梢が星々のまたたきを隠している。目の前には松明の列が続いている。
 言葉もなくキキオンが飛び出していった。
 開いた扉の中央をまっすぐに走り抜けて、煌々と燃える松明の列で縁取られた玉座への道を突破していく。彼にしか分からない悪魔の臭いを嗅ぎ取ったのかもしれない。あとを追おうとしたミスラは、一歩目を踏み出す前に哄笑を聞いた。キキオンの声だ。
「悪魔ぁ!」
 鞘走りの音はない。信徒から毒矢をもらった際に、鞘は遙か下層に落下しており、それからずっとキキオンは白刃をそのままぶら下げていたからだ。
「おれを、返せ!」
 ミスラの足が絨毯に乗る。これから延々と続く長い長い道の先に、もったいぶるように鎮座している玉座は、まだ見えない。そこに王もいるのだろうか。悪魔と何かを引き換えにして、この国の永遠を買った男の末路。
「全部返せ、おれから奪った全てを返せ! 舐めた一滴も残らず吐け!」
 言葉がそのまま刃と化したような軋んだ声は、悲鳴にも似ていた。キキオンが絶叫するたびに、奥の暗がり、玉座の位置から、もう一人の誰かの声が、なだめるような甘い声を出していることに気づいて、ミスラは戦慄した。
 ――待て、待て。話くらいさせてくれ、勇敢なる人間よ。
「黙れ! その汚い指でむしり取ったものを出せ!」
 ようやくミスラも、玉座の様子が見える位置まで追いついた。玉座には誰も座っていない。無人の玉座の前で、前かがみになったキキオンが、叫びながら両手で握りしめた剣を渾身の力で振り回している。ミスラは眼を凝らし、直ぐに気がついた。玉座のすぐ後ろに人影がある。
 見間違えることなどあり得ない。
 ウラシリオロの主。白髪城を統べる者。第五王女の父親。王だ。すぐそばで兇刃を振るう男に目もくれない。透き通る琥珀色の石になった王は、口元を引き結び、玉座の背に片手を乗せて、どこか遠くを見ている。
(それが、永遠を手に入れたっていうことなの……?)
「返せ!」
 ――なあ待て、おまえよ。
 物言わぬはずの王の傍から声だけが聞こえてくる。王の声ではない。キキオンに抵抗する声……悪魔の声だ。
「返せ!」
 松明の炎がキキオンの影を低く長く絨毯の上に伸ばしている。ミスラは石になった父王から眼を放し、ようやくキキオンの足元で蠢く影に気がついた。炎の揺れではない、もっと奇妙な、キキオンの動きと剥離したもう一つの影がある。獣のように暴れる男を、絡め取るようになだめるいくつもの腕の影。
「返せ!」
 ――おまえは素晴らしいよ。悪魔を削ることのできる唯一を持っているじゃないか。どこで見つけたんだい?
「返せ!」
 キキオンが空の玉座を木端微塵に砕きにかかっても、ミスラの眼には悪魔の血しぶき一つ見えはしなかった。だが、影の戦いは趨勢が決しようとしていた。キキオンの影にまとわりついていた黒い腕は、徐々に細り、やがては松明の炎にさえかなわないかのように姿を消していきつつあった。
「返せ!」
 ――儂もそう身を削られてはかなわんのよ。長年かけて蒐集した人間のあれやこれや。この城だって……。
「返せ!」
 ――ああ、ああ、可哀想にねえ。悪い同族に捕まったんだねえ。儂は違う。儂はおまえの願いならなんだって叶えてあげるよ。
「返せ!」
 ――返す、返すよ。何が欲しいんだい。儂らは、それを聞かなきゃ……。
「じゃあ、もういい」
 キキオンは台座を蹴って離れた。ミスラのすぐ前に着地する。空気をはらんで膨らんだ外套がしぼむ。ゆっくりと、肩の上で両腕の力をためる。剣先の狙いをつけるよりも、むしろそれは、玉座の悪魔に恐怖を与えるためだけの時間稼ぎに見えた。キキオンの横顔が歪んだ。誰にも分からないかもしれないが、ミスラの眼には、それは笑顔に見えた。
「嬲るのは止めだ。死ね」
 キキオンが突き出した剣は、そのまま玉座の背に深々と突き刺さった。既に入っていた亀裂から、裂ける木の音が聞こえてくる。ミスラはとっくに呼吸を止めていた胸を、さらに詰まらせて、その様子を凝然と見ていた。キキオンはしばらく柄を握り締めたまま、突きを放った姿勢を保っていたが、ふいに剣から手を放した。
 何も起こらない。
 剣は玉座に突き立っている。
 王は変わらず遠くを臨んでいる。
 悪魔の声は消え失せている……。
(悪魔は?)
 無言のまま立ち尽くすキキオンに、ミスラは問うた。胸の底から何かがこみあげてくる。強すぎる感慨は吐き気にも似て、ミスラはそれが歓喜の感情なのか、今一度おのれに尋ねた。これで終った? 悪魔は死んだ……?
「悪魔は滅んだ」
 短く答えて、キキオンが振り返る。
 胸を覆い尽くしていた猜疑が、勝利の喜びにとって代わられようとしていた瞬間を、もう一度覆すような表情がそこにはあった。彼はまずミスラを、これまでにない期待に満ちた眼で見ていたのだ。ミスラの思い違いでなければ、今まで彼が一度も見せたことのない、最も人間的な情のようなものがそこにはあった。
 それが瞬時の間に絶望にすり替わった。
 枯れ草色の眼は落胆を隠さなかった。暗く淀んだ沼の底のような眼は、あれだけ望んでいた悪魔殺しを成し遂げておいて、何も手にすることができなかったのだと物語っていた。
(キキオン……)
「寄るな!」
 呼びかけに対して、彼が示したのは露骨な拒絶だった。ミスラが伸ばした腕を、化け物たちを葬ってきたとき以上の俊敏さで完璧に避け、それで力尽きたようにその場に膝をついた。絨毯が柔らかく膝を受けとめる。ミスラはもう一度言った。
(キキオン?)
「おれは、キキオンじゃない」
 うなだれた、皺枯れた声が返ってくる。
「おれはあいつの兄になって、あいつが言うから悪魔殺しになって、だから、悪魔を殺して。謎かけだ。簡単なんだ。こんなはずじゃない。なのに、どうして……」
 呼びかけるべき呼称を失くして、ミスラはしばし言葉に迷った。触れようとしても彼はまた渾身の力でそれを避けるだろう。それに、そこまでして彼の事情を斟酌し、内面まで踏み入る理由もないのだ。悪魔が滅んだ今、ミスラに遣わされた救いのものの役目は果たされた。彼がどうなろうとミスラにはもはや関係がない。この場を立ち去り、動き出した時が白髪城を真の滅びに連れてゆくまでを、どこか安全な場所から眺めて、人形が停止するまでの余生を過ごしても構わないのだ。咎める者はいないだろう。珪化し、結晶化してしまった城の人間たちは、ミスラを責める手段を持たないのだから。
 玉座の間に明々と焚かれた松明の炎が、救いのものの髪を鮮やかに彩っていた。これは夕日に染まる梢の色、とミスラは反芻した。
 ミスラがぐずぐずしている理由は複雑なものではなかった。彼女の愛する白髪城の景観を思わせる色合いをその身に持った男のことが、なんのことはない、単純に気にかかっているのだ。
(あなたには感謝しているわ)
 救いのものは手で顔を覆った。泣くのかもしれない、とミスラは思った。
(もう、私の言葉なんてまるで意味のないものみたいだけど。あなたにはとても感謝しているのよ)
「じゃあ、教えてくれよ」
 突然、救いのものが跳ね起きて言った。
「なぜ何もない?」
(何が……)
 ミスラの戸惑いに、救いものものは襟首を渾身の力で締め上げることで応えた。
「なぜだ? あんな犬でさえ持っている。おれにだってあってもいいはずだ……!」
 前後に揺すられながら、前にもこんなことがあった気がする、とミスラは考えた。悪魔を殺したあとも、彼はこの彼だけの世界から抜け出せていないのだ。
 と、救いのものが突然手の力をゆるめた。至近距離だったから、ミスラは彼の眼が何を見たのか直ぐに分かった。人形の首の縫い目だ。自分自身で二度も縫ったものを、また壊そうとしていることに気づいたのかもしれない。
「そうだ、おまえは、人形だったな……」
 上の空でつぶやいたあと、救いのものは瞑目した。ミスラが力の抜けていた男の腕に手をかけ、自らの首から外して、二歩下がるまでの間、彼は無言で何事かを考えているようだった。ミスラが三歩目を下がり終えたとき、眼を開けて、言った。
「一度だけでいい。頼みがある」
 聞くわ、とミスラは内心でだけ答えた。是も否も、言葉にしなかったのは、救いのものがミスラの返事を怖れているように見えたからだ。
「お兄ちゃんって呼んでほしい」
 反射的に、お人形遊びみたいね、と返そうとして、ミスラはそれを思いとどまった。彼がこうして彼の内側を見せるのは初めてのことかもしれなかった。妹のことは一度だけ聞いたことがあるような気がする。そうでなくとも、彼がミスラに誰かの面影を重ねているきらいは十分すぎるくらいにあった。それが、ここにきてようやく打ち明けられた。
 湿った夜風が人形の首筋を撫でた。
(お兄ちゃん)
 何の準備もなく、ミスラはただそう呼んだ。救いのものはしばし真顔でミスラを見つめたあと、少し笑った。諦めの滲んだ笑みだった。
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