珪化の国
ミスラ 20

 白髪城は夜を迎えようとしていた。
 第五王女の館がある五の幹六の枝や、層をつなぐ関所や、樹幹内部や、さまよう孤独な化け物たちの背中や、生身の心臓を宿す人形にさえ、宵闇は等しく訪れる。
 操られるように、あるいは導かれるように、ミスラの人形の身体は自然と虫と男を追っていた。化け物たちの行く末には第二王女の姿があるに違いない。
 夕日の逆光に翳る虫と男を追いながら、ミスラは第二王女の運命に思いを馳せた。シロラマロモッコの朝はどのようにして迎えられてきたのだろう。シロラマロモッコの昼は。夜は? どんな姿で虫の訪れを待っているのだろう。この城の時間は最上階に居座る悪魔が隠してしまった。以後悪魔が滅びるか気まぐれを起こすかするまで、まばたきも凍りつくような、石の中で呼吸するような、ぴくりとも身動きできない死んだ時の繰り返しだ。一度蹂躙される運命に行き当たってしまったならば、ますます煮詰められ純化されていくそれを受け止め続けねばならない。歯向かった記憶も翌朝には忘れてしまう……いつから果てるともなく続いたそれの残骸を、ミスラは見に行こうとしているのだ。
 枝の先端に居を構える第二王女の館に向けて鈍重な歩みを続けていた多脚の虫は、ミスラの眼から見ても徐々にその速度を落としつつあるようだった。赤い断面を覗かせた短い白い腿を下腹にいくつもぶら下げる段になって、ようやく虫は前進が阻まれようとしていることに気がついたのかもしれない。おもむろに白い脚の蠢きが止み、己の脚を奪い続ける存在に対してはじめて威嚇の声を上げる。
 そのときミスラは爪先に転がっていた一本の脛に足を取られていた。深い草の丈に沈んでいた物体に気がつかず躓いた。足元を見やり、想像を裏打ちする白い腿を認めて、目を逸らしたとき、ざらざらに錆びついた金属じみた虫の声と、湿った布の塊を無理やり引きちぎったみたいな音を耳にして顔を上げたのだ。
 少し頭を横向けた虫の、静かな後ろ姿だけがあった。
 先ほどまで必死の殺気でもって虫の足を片端から斬り落していた守護者の姿は消えている。
 雲間を抜け地平に没せんとするあかがねの光が、一瞬間、虫の顎からぬめり落ちるものを鮮やかに照らし出した。
(なに……)
 おもむろに開始された咀嚼音が、ミスラの唇からこぼれた疑問の声を塗りつぶした。
 似たような音をミスラは知っていた。それも、まばゆいばかりの記憶、最後の夜の宴で耳にしていたのだ。白髪城中の篝火という篝火が焚かれ、酒の樽は栓を抜かれ、家畜は血を抜かれて放埓に卓上に召し上げられ、誰もが胸を開いて言葉を交わしたあの夜だ。御馳走をふるまわれ、遠慮会釈なしに肉を食む人々が立てる音に、それはよく似ていた。虫というものはもっと乾いた音をさせるものだと思っていたのに、とミスラは考えた。
 やがてばりばりと固いものを砕く音と、鼻を啜りあげるような音が続いて、沈黙が下りる。虫の間食は済んだらしかった。
 ミスラが見つめる先で、虫が小さく身じろぎする。居心地が悪そうに巨体を揺するようなそれは、やがて間断なく続く身震いに変わっていた。虫は声を上げて啼いていた。金属を擦るような声がひときわ高まったとき、突然、真新しい脚が一本生えた。ぬるついた体液を爪先から滴らせているそれは、虫の身体の下で弱々しく揺れていた。
 それを端に、一斉に脚が生えかわりはじめる。泥の中から草の根を勢いよく引き抜くような音が連続して、甲殻で接がれた横腹の隙間から、目を灼くようなまぶしい白が一斉に生えそろう。虫は満足げに顎を打ち鳴らし、先程までとはうって変わった素早い足運びで、猛然と草の野を駆けはじめた。
 ミスラは無意識に数え上げていたのを止めた。脚の数が十か二十かはさほど重要ではない。
 虫がなぎ倒した草の道を、駆け足でついてゆく。五、六歩走ったところで、地に打ち捨てられた男の上半身が突然視界に現れる。濁った灰色の眼を一瞬だけミスラは見つめて、すぐに振り切った。弔いの言葉は残さなかった。ほとんど飛び跳ねる勢いで草の海を泳ぐ虫を追うことだけに専心する。夜が訪れようとしているこの時分でさえ、人形の眼は、大股開きの白い脚に筋が浮く様子を仔細までとらえていた。柔らかい脛が草とこすれ合い、生まれたての肌が破れて血がにじんでも、虫は止まらない。
 まるで自分と同じだとミスラは思った。
 砕かれた手足でミスラは駆けていた。四肢はもはや自分のものではない、人形のものであり、その気になればたとえ骨の代わりの金属芯や筋繊維代わりの絹糸がちぎれたとして、心臓が使役をしているという事実を忘れさえしなければ、いくらでも身を突き動かすことができる。あるいは、虫もまたそうなのかもしれない。有象無象の人間から喰いちぎった足を、自分の良いように使っているのかもしれない。
 かつては人間であった。今は化け物だ。
 虫が前進するより速くミスラは駆けた。最後の太陽を受けて黒々と光る臀部の甲殻に手が届く。分厚く覆われた巨体の接ぎ目に指先をかけて人形の身体を跳躍させる。ミスラは宙でほとんど一回転して、峰のように隆起している虫の背中に背中あわせに落下した。
 揺れる虫の背から起き上がり、ミスラは化け物の頭があるほうへ這い進んだ。
 虫の首はそこだけ幅の狭い細やかな甲殻で覆われていた。柔らかそうな関節は全方位を見渡すための造りだろうとミスラは考えた。これは誰かや何かを探すための生き物なのだ。
 指のかけづらい首元の接ぎ目を諦めて、ミスラは背中に戻ることにした。座りの良い位置を定めて、虫が突進する方角を見るともなしに眺めやる。
 それまでは気がつかなかったものに、ふいに気がついた。
 虫の進路とほぼ平行に、なぎ倒された草の道が続いていた。振り返ると、ミスラが気がつかなかっただけで、ずいぶん前から続いているものらしい。守護者の男に聞いたとおり、一度目の襲撃の跡なのだろう。右手に見えるそれと、ミスラが跨る虫の進路は、一見同じものに見える。また目線を前に戻せば、蛇行しながら伸びる草の道と虫の道程は、行く末で交差しているように見える。
 その先にあるのは第二王女の屋敷だ。
(あなたは毎日同じことをしているの?)
 天上から迫る群青の闇は、大地を燃え上がらせるあかがねの色をもうじき駆逐しようとしている。枝の先端にぽつんと建つ館は、最後の残光を背負い、その影をますます色濃く見せていた。
(あなたは朝目覚めたら、シロラマロモッコの足をかじりに行くのね。あの守護者が止め立てようとしてもはね飛ばして)
 遠目に見えた屋敷の様子は尋常の通りだったが、近づくにつれて、不思議な違和感があることにミスラは気がついた。屋敷の前では篝火が燃えている。屋敷で働く使用人が火を灯したのだろう。篝火は屋敷の前を照らし、建屋をめぐる柵の一部にちょうど虫の横幅くらいの大穴が空いていることを知らせていた。
(お腹がいっぱいになったから散歩に出かけた? それで、また今になって戻ってくるの? 今度はシロラマロモッコをまるごと食べてしまうのね)
 屋敷の玄関も巨人に踏み荒らされたようになっている。ひしゃげた扉は用を為さずに地面に転がり、かつては豪奢な美観と威容を誇っていたであろう門柱は半ばで折れている。蹂躙の痕跡は明らかだ。だというのに、屋敷の窓という窓からはまばゆいばかりの灯りがこぼれ、夕食の支度にあわただしく立ち働いている様子の使用人たちの影がちらちらと見え隠れする。
 ミスラもその風景はよく知っている。なにごともない普段の夜には、きっとどの王子王女の館でも見られる光景だったろう。日常と破壊が入り混じった屋敷の様子がミスラの心臓を粟立たせた。
(あなたは誰だったの。シロラマロモッコの所へ行って、どうするの。何を探しているの……)
 ミスラの問いかけに、木柵の破砕音が応える。既にあった穴を嘲笑うように、虫は屋敷をめぐる柵にあらためて突破口を穿った。飛び散った木端が、回転しながら、虫の背にいたミスラの頬にまで届く。
 虫は勢いを得たまま屋敷の中に飛び込んだ。
 第二王女の屋敷の間取りは、第五王女が暮らしていたそれととてもよく似ていた。玄関を抜けて直ぐに来訪者を迎えてくれる吹き抜けのホール。敷き詰められた赤い絨毯は二階への階段に続いている。階段の下にある扉は厨房への通路だろうし、その隣の扉からは水場と裏口へ向かえるはずだ。束の間、五の幹六の枝にあった第五王女の屋敷に戻ってきたのかとミスラは錯覚を覚え、すぐに頭をふった。虫の背から見下ろす景色はたしかに慣れ親しんだものに違いなかったが、ところどころに見える、引き裂かれた絨毯や、割れた窓のガラスや、壁に走る引っかき傷や、床に滲んだ何かの染みに目をそむけるほどではない。ミスラは屋敷の様子を凝然と眺めた。平静に働く使用人たちの姿が見える……慌てず、騒がず、事態を注視すらせず、彼らは己の決められた職分をこなしていく。手に掲げた皿の中身は、第二王女の好物なのかもしれない。それを食す人間がいるかいないかは、彼らの思考の埒外にある。
 屋敷に侵入した後、虫の足どりは迷い無く階上を目指した。
 息を吸って吐くような自然の体で、進路の上にいた不運な使用人を一人踏みつけたあと、屋敷に新たな傷を刻みながら、巨体を階段に滑りこませる。ほとんど暴れるように身をよじり、固い外殻と美しい脚で手すりを破壊しながら、階上へとその身体を運んでいく。
 階段を上りきり、廊下の壁を甲殻で削りながら進んでいた虫が、ようやく一つの扉の前で、足を止めた。
 シロラマロモッコの寝室だとミスラは直覚した。
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