珪化の国
ミスラ 12

 六の枝を歩きつめて、切り立つ壁にも似た樹幹にたどり着いたあと、幹に沿って少しだけ南に進めば、樹幹の内側に通じる小さな石の門が現れる。もとは樹幹にうがたれたただの裂け目だったものを、祖先がそれなりの時間をかけて、門の体裁を整えたのだろう。ミスラは人形の指で石の門柱に触れた。表面は細かい砂の粒子が凝っていて、少しだけ、ざらついていた。
「先に行けよ」
 と、足に軽い衝撃を受けて、ミスラは前にのめった。二、三歩よろめくように踏み出して、門をくぐり樹幹の内側に入り込む。風渡る明るい外の枝に比較すると中は多少は薄暗いが、巨大な円筒形に閉ざされているはずの石の幹を思えば、内側は十分すぎるくらいに明るかった。巨木のところどころには自然の光源があった。あるいは幹の裂け目から光が射し、またあるいは薄くなった幹壁から柔らかく透かし通された光が落ちてくる。折り重なる光は珪石の壁に反射している。
 それら幻想の風景と、ミスラの着ていたドレスに残った靴跡に一瞥を投げて、キキオンは言い放った。
「おれは感傷につきあわない」
 どうやら自分はキキオンに蹴飛ばされたみたいだと、ミスラは気づいた。人形の服は、煤と草の汁と、今また土の足跡が加わって、すっかり汚れていた。第五王女の屋敷のきれいな椅子に座りこんでいたときに比べるまでもない。だが、次の朝を迎えたとき、これらはもう全て元通りとはならないのだ。ミスラは悪魔の手を借りて、とぐろを巻く時の円環から抜け出したのだから。自由な心臓と、悪魔殺しの手段を持つ救いのものを手に入れた。つかのまミスラは考えて、我に返った。キキオンは感傷につきあわないと言ったのだ。
(わかってる。あなたに必要なものは、悪魔に至る道だけ)
 声が珪石の空洞の中で反響する。キキオンの右腕が外套の下でわずかに動いたのをミスラは認めた。意図は分かるような気がした。あの手はきっと、ミスラの首を絞めたがっている。逸る手を止めたのは、無意味と気づいたからだろう。キキオンは、人形の声が喉から出ているわけではないと知っている。
(ねえ、ここは面白いでしょう)
 ミスラはもう一歩幹の奥に寄った。両手を広げてキキオンを招く。ぽっかり空いた吹き抜けの空洞の縁に立って、聳え立つ幹壁を俯瞰できる位置まで呼び寄せる。六の枝につながる門から見て、幹の中央の吹き抜けを挟んだ遥か反対側にも同じような造りの門があるはずだったが、ミスラたちの立つ位置からはあまりに遠く、暗褐色の樹壁がぼんやり薄明かりに沈んでいる様子が見えるばかりだ。それほどまでにこの大樹の幹回りは広大だった。
(普通の生きている木には、幹の外側に蔦や葛が巻き付くわね。このお城は、逆さま。階段が幹の内側にぐるぐるはりついているのよ)
 白髪城の中央部をなす太い幹は、朽ちかけた古木の常にならって、もともと内側に巨大な空洞を備えていたという。ミスラたちの祖先がこのばけものじみた珪化木に住み着こうと決めたとき、一番最初に彼らがしたことは、幹の内側に這わせるように螺旋階段を削りだしていく作業だったに相違ない。何年その作業が続いたのか、正確な記録は残されていない。十年か、百年か。なんにせよ気の遠くなるような時間だ。
 樹幹の内側を逆向きに絡まる螺旋階段は、これも外界の木に絡みつく草と同じで、一本などではなかった。六の枝から壁沿いに登る石段は、七の枝、八の枝からの石段と絡まり合い、ときに別れ、ときに重なり上層へと続いている。五の層にあるのべ七十七の枝のそれぞれから端を発する石段の群れは、四の層と五の層を隔てる大関門の手前で全てが合流するまでは、森の獣が樹皮に爪を突き立てるような奔放さで、樹幹の内側を縦横に這い回っているのだ。
(この階段のどれかをずっと登っていけば、……そうね。太陽と月が四回まわるくらいの間登り続ければ、悪魔のいる玉座までたどりつける)
「朝には全て元通りになるんだろう、この城では。何日もかけて上に登っても、また屋敷の前に戻されるだけじゃないのか」
 訝しげな声に、ミスラは一つ頷いた。
(普通は、そうなるわ。でもあなたはこの国の人間じゃない。悪魔が約束したのは、この国とこの国の民の永遠よ。そして私は……)
 瞬間、ミスラは続きを口にすることをためらった。詮無きことを言おうとしていると気づいてしまったからだ。
(私は、もう悪魔の爪に引き裂かれたあとだから、他の悪魔の力には干渉されない)
 結局、ミスラは昨晩に寝台の上で悪魔に聞かされた話をするにとどめた。キキオンはそういうものかと頷いている。真実かもしれない推量を口にする機会はほんの喉元までこみあげていた。それが失われたことに、内心ミスラは安堵していた。手近な石段に足をかける。
 この国とこの国の民は永遠を約束されてしまった。第五王女はこの国の民ではない。玉座に座る王はそう思っていただろうが、第五王女は第五王女が正しく父王の子であると知っていた。相反する矛盾の意思はせめぎ合い、結果として、第五王女は繰り返す生から中途半端にはじき出された。
 身体は時の円環にとらえられたが、心と記憶は珪化しなかった。
 王がこの国のものと認識していなかったはずの第五王女の身体だけが永遠になってしまったことに、今でもミスラは皮肉を感じずにはいられない。まるで、現実と逆さまの結果。これでは第五王女の心がこの国の民であることを拒否しているみたいだ。この国を、この城を、こんなにも愛しているのに。
 完全なウラシリオロの民ならば珪化の過程で何もかもを忘れられただろう。だが心臓は憶えてしまった。首を刎ねられて死んだ身体が次の日何事もなかったように屋敷の寝台で目覚めてしまうことを、心臓は知ってしまった。自らの国に降りかかった災いの正体を知ってしまった。
 心臓は何もできない身体を灰に変えて悪魔に差しだした。心臓は人形を支配した。心臓は救いのものを連れて、玉座の悪魔を脅かす覚悟を決めた。ミスラは第五王女の心臓だった。
 石段は上へ上へと続いていく。視線は上を目指し、足音は遅れてついてくる。ミスラは幹の割れ目から射し込む細い光に目を細めた。
(六の枝は五の幹の中でもずいぶん高いところにあるの。だから、四の幹までは早いわ。もう少し登ったところに大きな関所がある。ここと四の幹を行き来する者を門番が見張ってる。許された者以外は通り抜けることはできない)
 城壁のない白髪城を守ってきたこの仕組みも、珪化が始まって以後、層と層の間を隔絶するためだけのものになって久しい。時間は無限にあったから、第五王女は何度も門を越えて姉たちのいる上層に向かおうとした。だが関門を越えることはできなかった。だから、門の向こう側が今はどうなってしまっているのか、ミスラは知らない。
「誰も通れない? おまえは?」
 ミスラについてくるような形で石段を登りながら、キキオンが訊ねてくる。
(私も通れない。だから力づくで通るしかない。二人いる門番は、もう誰一人通さない。許可証を見せないと通れない決まりだけど、ふざけた悪魔が二人の目を塞いでしまったのよ。そのまま珪化が進んでしまって、今では、二人とも自分たちの目がないことも忘れたみたい。それでも通行しようとする者には許可証を見せろと言ってくる……だから誰も通れない。無理に進もうとすると、二人に首を刎ねられる)
 何も知らなかった第五王女みたいに、とミスラは内心で付け足した。
(キキオンは悪魔を殺せるんでしょう)
「そうだ」
 ためらわずにミスラは言った。
(だったら、悪魔に触れられて結晶化した人間のことだって、殺せるわ……ほら、見えてきた)
 実際、登った段は百にも満たなかったはずだ。吹き抜けの中央洞を見下ろしても、六の枝につながる扉からそれほど離れていないと分かる位置だ。
 ミスラの宣告から三段登ると、石段はやや広い踊り場に変じた。幅狭の踊り場はすぐに緩い登り勾配の道となり、道の先には巨大な門が続いている。門がまえの半ば以上が崖の道からはみ出し、下層に落ちかかろうとしている。この建造物は見たままの目的をしている。すなわち石段から続く道を完全に塞ぐためのものだ。
 門の手前に、二つ、巨大な影がそびえたっている。人と呼ぶにはあまりに巨大な影は、ジオートクとターヒトクという名の兄弟だったはずだ。もはやどちらがどちらと見分けることはかなわない。極度に肥大した門番の身体さえ、誰も通さないという、ただその唯一のためだけに巨大化してしまったのかもしれない。
(門を通ろうと声をかけると、通行証を見せるように言ってくる。ないと分かれば、手に持ってる剣で斬りかかってくるわ)
 警戒を促す声をかける。キキオンは無言のまま、ミスラの前に歩み出た。何も言われなかったが、ミスラは足を止めた。門の前に立つ二人の門番まではまだだいぶ距離がある。キキオンはなんでもないような足取りで、間を詰めていく。
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