珪化の国
<一章. 悪魔の爪>

ミスラ 1

 古都ウラシルの中央にそびえる城は遙か巨大な化石樹をくり抜いて造城された。呼び名は白髪城という。城壁をなす珪化木が雨に溶出し、幾筋もの灰色の線を描いたことが由来とされている。いつとも知れぬ時代からいくつとも数えられぬ世代を重ね、かつての大樹には屋根も土も人間も積みこまれ、在りし日に鳥獣がさえずったよりも賑やかな日が流れ、そして、あらかたの人間が去った今、ミスラは琥珀色の地面を踏みしめて、もっと美しい名をつければよかったのにと感じている。
 城の中庭には満開の宵待ち草が植わっている。その昔、ミスラたちの祖先が豊かな大地に暮らしていた頃、城内に持ちこみ、増やしたものだ。宵闇にくるぶしの高さで花開く紅白の花。むせかえるような甘い匂いは、今日に限っては焼け焦げた樹の臭いで塗りつぶされていたが、淡く輝く花弁は普段の通りで、その晩もちょっとした荘厳な眺めを作り出していた。ミスラはいつかこの絨毯の上で舞踏会を開こうと夢見ていた。花を踏みつけてもなお踊りあかしたい相手を見つけたとき、身代に幸福の予感が降り積もるだろうと予期していたのだ。
 その夢も今夜までだろう。
 ミスラは陶然とした面持ちで宙を見上げていた。ミスラの頭より人ひとり分高い位置に走った白い糸の流れを見つめていた。既に陽は沈み、月のない夜は、はや数刻が流れていた。真闇の懐に抱かれた城郭を立ち歩く人の姿は失われて久しく、辺りを照らす明かりは、焼け落ちた家屋から放たれる照り返しの赤黒い炎だけだった。燃え盛る炎の熱に背中を押されて、ほとんどよろめくていでミスラは花の庭に一歩を踏み出した。宵待ち草の茎が足元で繊細な音を立てて折れる。
(悪魔!)
 夜に浮かぶ白糸に向かってミスラは呼びたてた。
(悪魔!)
 糸はおとぎ話の蛇めいて、自らの尾を追いかけるようにして空を一回りして一つの真円を象った。白く光る糸の輪は、壁画に描かれる古代人のかんむりにも似ていたが、ミスラはそれが糸でもかんむりでもないと、知っている。それこそは異界にひそむ悪魔の鉤爪が通り過ぎたしるし、贄の代償が与えられる召喚痕だ。くり抜かれた夜が糸の円の内側に吸い込まれて消えるのを認めて、ミスラの心臓はいやおうなしに駆けだした。夜よりもなお仄暗い虚無から吐き出されるであろうものを待ち構える。
 やがて、湿った臭いとともに、召喚痕は、一つのものを、輝く花の園に生み落とした。花たちが潰されて、その瞬間だけ、地上を洗う火焔の臭いを、花の甘い香りが押し隠した。
 頭上では、糸が自らの虚無に食まれて消え去り、ミスラはとうとう自分が手に入れたものを目の当たりにした。
 紅白の微光がものの正体を透かし見せている。
(外套……外套と倒れた人間……外套をつけた人間の男。外套ごとずぶ濡れで倒れている人間の男)
 一歩一歩、花を踏みつけて、召喚痕が導いたものの正体を暴いていく。
(外套ごとずぶ濡れで倒れている人間の男。外套ごとずぶ濡れで、切れ味の良さそうな剣を握ったまま倒れている、人間の男)
 轟音が背後から火花を飛ばしてきた。ここらの建造物に日没とともに片端から火をかけてまわったのはミスラだ。焼け落ちた家屋がついに倒壊し、一人ベッドで眠っていたお姫さまがとうとう灰になったことを背中で感じとる。
(外套ごとずぶ濡れで、切れ味の良さそうな剣を握ったまま倒れている、悪魔がつかわした人間の男)
 ものとの距離は、もう一歩もなかった。ミスラはうつぶせに倒れているものを蹴り転がして仰向け、馬乗りにまたがった。千切れた花弁の燐光がものの顔を青白く燃えあがらせている。
 ミスラは自分で自分を抱きしめた。足元から水を吸い上げて湿りはじめた身体がふたしかな感触を伝えてきて、ミスラは自身の願いが叶えられたことを知った。
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