珪化の国
王女 ネバーエンディング

 目が覚めた瞬間、彼女はまず最初に死のうと考えた。死ぬべきだ。そうするべきだ。それが正しい……。
 のたうつように寝返りをうつと身体は簡単に寝台から転がり落ちた。毛足の長い絨毯だから、落ちた先で苦痛に喘いで身動きが取れなくなるなどということはない。荒い息がおさまるまで待って、第五王女は立ちあがった。毎朝そうしてきたように、その日も姿見を確認する。高貴なる血を引いた者の寝室に相応しい、豪奢な装飾で縁取られた大きな鏡の中から、死人みたいに青ざめた娘が自分を見返してくる。
 見た目は、綺麗に見える。
 夜ごと男から怖気の走る愛を濡れた耳にささやかれ、裸身に秘めた羞恥を暴きたてられ、嬲るように全身を蹂躙され、最後の一突きの後に殺される女には、とても見えない。
 第五王女は少しだけ考えた。ここで半狂乱になって暴れて悲鳴を上げるのはもう試みたあとだし、震える手で燭台を鏡に叩きつけるのも経験済みだ。壁際の金属管の蓋を開けて、助けてと日がな一日嘆いたことも。どの結果も大差がない。なめらかな無表情の侍女は、部屋に散らばる鏡の破片や燭台にまるで気がついていないみたいな顔で、朝食の時間ですと部屋に滑りこんできて、やはり何事もなかったかのような顔のまま出て行ってしまうし、どうにかなってしまった上層の姉たちは、返事を返してくれない。
 新しい一日は訪れない。彼女一人が一日の中でどれだけ歩き回ったところで、その振れ幅は取るに足らないもので、悪魔に固められた時を揺り動かすほどではないのだ。夜は同じようにやってくるし、ダヒテも同じ時間にやってくる。屋敷を取り仕切る執事の息子にはもったいないくらいの屈強な身体は、在りし日には頼もしく思えたものだった。生来の生真面目さも手伝って、実は第五王女が最初に恋を知った相手でもあったが、もはや何もかもが闇にぬかるむ汚泥の記憶に塗りつぶされてしまった。あの顔を見て沸き上がるのは淡い胸の高鳴りではなく、吐き気と恐怖だ。死神が死を携えてやってくる、それだけに見える。
 昼間、どんなに懇願しても、用事を言いつけても、ダヒテはだめだった。微笑む彼には第五王女の声などもはや聞こえていない。夜になるまで彼は模範的におとなしい……それが、あの時間になると、急に扉を叩きはじめる。始めは、優しいノックだ。コツコツと戸を叩いているだけのそれが、最後には扉を叩き斬って中に這入りこんでくる。逃げるのもだめだ。彼はどこまでも追いかけてきた。第五王女が朝起きて直ぐに走って逃げだしても、夜のあの時間から動き出す彼の腕からは逃れられない。上に逃げても下に逃げても、関所の門番は通してくれない。七十七ある枝のどこに逃げても、見つけられて、屋敷まで連れ戻されて、同じ目に遭う。殺される。
 ならば死ぬべきだ。
 死ぬべきなのだ。時の円環に囚われたこの城で、第五王女が自由にできるのは、彼女自身の使い道だけなのだから。
(そうよ……)
 そのとき、はじめての閃きが電撃のように総身を震え上がらせたことを第五王女は感じた。その思いつきは、怖ろしく甘美だった。簡単で、しかも多大な結果をもたらすことができる。悪魔がささやいたみたいな誘惑だ。一度味を知ってしまえば、到底止めることなどできなくなるだろう。そんな予感がする。
「その気になれば、私はあなたを私の世界から締め出すことだってできるわ」
 声に出すと、ますます実感が胸に迫ってくる。そうだ。この思い付きが全てだ。いままで思い至らなかったことこそが、不自然なくらいなのだ。
 気がつくと、鏡の中の娘は、第五王女に微笑みを向けていた。第五王女が微笑み返すと、鏡の中の娘はますます嬉しそうに笑う。自分の思いつきに気を良くして笑っている。第五王女は我がごとながら、娘の微笑みを目にしたことが幸せでならなかった。
「そうすればいいのよ。あいつは私の世界に要らない」
 鼻歌交じりにクローゼットを開け放ち、第五王女は手早く身支度を整えた。大事に取っておきすぎて、つい着る機会を逃していたドレスたちを、端から順に目線で愛でる。今日からはいつでも着れる。
「今日からは晴れ着だわ。私がそう決めたから!」
 第五王女は明るい水色のドレスを選んで、鏡の前で一回りした。髪の毛を編みあげることはしない。自分では上手くできないし、かといって侍女たちに触られることも耐え難かったからだ。
 部屋の扉に大股で向かおうとして、第五王女は思い出して振り返った。壁に這うように沿っている金属管を、しばし見つめる。足音を消して、近寄る。蓋を開ける。耳を澄ませる。何も聞こえない……。
「いずれかの姉上、聞こえていますか? ご無沙汰しております。私です。第五王女キキオン・ウラシリオロ」
 金属管の奥に吸い込まれた第五王女の声は、しばらく奥でくわんくわんと反響していた。
「お許しください、姉上がた。私はもう気力をなくしてしまったのです。これ以上、この城にとりついた呪いを調べることは、もうできそうにありません。姉上がたを見捨て、我が身の安らぎを求めてしまう由、どうかご容赦ください……」
 最後の反響が闇に吸い込まれたことを、第五王女は係累の許しと受け取った。金属管の蓋を閉めて、今度こそ寝室をあとにする。扉を開けて、部屋の前でかしこまっているあの男を後目に、階段を下りて、侍女二人とすれ違い、玄関の扉を押して外に出た。
 朝の光だけが第五王女を断罪していた。敢えてそれに逆らうように、第五王女は朝日に向かって駆けた。腿にまとわりつくドレスをさばいて、爪先に絡む青草を蹴って、ちょうど息があがりかけたところで、彼女が求めたものが目の前に開けた。朽ちかけた城壁は障害にもならなかった。助走をつけて、第五王女は蒼穹に身を躍らせた。
 柔らかなドレスの生地が風をはらんで膨らんだ。鳥みたいに飛べるはずもなく、やがて落下が始まる。薄い雲を突き抜けながら、第五王女は落ちていった。地上が迫ってくる。黒土と草原に覆われた地面が。
 目が覚めた瞬間、彼女はまず最初に死のうと考えた。死ぬべきだ。そうするべきだ。それが正しい。夜は要らない。第五王女の世界から夜を排除するのだ。そうすれば、安心な気持ちのまま朝を迎えることができる。
「ねえ、今日はどの服を着ようかしら?」
 起き上がって鏡の中の娘に尋ねる。微笑む娘には、明るい黄色が似合うような気がする、と第五王女は思った。
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